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「ぱいでぃあ」での学び…子どもからの発想

2004/03/23
「フリースクール・ぱいでぃあ」での学びの方法

■昨今の「学力低下」論議について

 子どもたちの「学力低下」が巷間の話題となってからしばらく経過した。だが、その傾向は一向に収まらない。むしろ拡大しているようにさえ見える。これだけ教育が過熱し、学習塾や進学塾をはじめありとあらゆる「お勉強」事が隆盛を極めていながら、どうしてこういう「学力低下」が叫ばれるような事態になったのか。まさか学校現場で何の対策もとらなかったわけではあるまいし、進学塾も進学熱を煽り立てるために生徒を集めていたわけではあるまい。

 現在、公立学校に通っている小学生の約4割、中学生の約7割が学習塾や進学塾に通っていると言われる。これは私たちが子どもの時には考えられなかった現象である。この間、学校教育での教育技術等の研究も進み、それなりに教える側の進歩もあったはずである。それでなければ、教育研究のために膨大な公的資金や多大な時間を注いできたのかさっぱり意味が分からない。だから、ひと昔の子どもたちと比べて今の子どもたちは学力を含めた総体において当然レベルが向上していてしかるべきである。ところが、実際は全くその逆である。「だから、もっと子どもたちに勉強させなければならない」という頓珍漢な議論もあるようだが、もはやそんな小手先の技術では解決できない問題が横たわっているのは火を見るよりも明らかである。

 私の住んでいる地域にも、有名進学塾と名のつく塾が駅周辺のビルを占拠し、夕方や土日ともなれば地域住民の数よりもずっと多いのではないかと思われる数の子どもたちや母親で溢れかえるが、そもそも学習塾は子どもたちの学力向上に役立ってきたのだろうか。そう考え直してみなければ、これだけ学習塾が隆盛していながら、子どもたちの学力が低下しているということの説明がつかないのだ。そしてもう一つ疑問なのは、そもそも子どもの学力とは何か、子どもの教育とは何かという根本的なことが教育関係者の間で吟味されないまま、枝葉末節的な教育論議ばかりが先行しているのが今の教育界の現状ではあるまいかということである。

■学習指導要領は最善の指導方法か

 今まではあまり声を大にして訴えることはなかったが、無原則に学校の教科課程に合わせることがが果たして子どもの学習に効果的な方法なのだろうか。学習塾は学校の教科課程に沿って子どもたちに勉強を教えることを原則としてきた。そして時にはいろいろな箇所で綻びの見え始めた学校教育を陰で支える役割さえこなしてきた。「公教育」表明してはいるが、学力の維持一つ取っても大きく学習塾に依存しているのが現在の学校教育の姿なのである。学習塾なくしては現在の公教育は成り立たなくなっているとも言える。しかし、学習塾が公教育を補完する形で子どもの勉強を教えるということ自体が、目先の効果は別として、長い目で見たときに、かえって子どもたちの学力を削ぐ働きさえしているのではないかと疑ってみることもまた必要ではなかろうか。

 学力低下防止の切り札のごとく巷間に喧伝されている「百マス計算」や「基礎基本の反復練習」にしても、それに終始するならばかえって思考を低次元の枠に嵌め、より発展的・創造的な思考を妨げる結果をもたらすのではないかということも考えてみなければいけない。
また、本人の能力を超えた難問に挑戦させる進学塾に通わせることが、子どもの能力を引き出すよりは自分の出来なさを確認させる作業になることもあるだろうし、分からないところはいつも教師から正解や解き方を安易に教えてもらったりするということになれば、問題と格闘しながら自力で答えを求めるという努力を放棄させることに繋がることもあるだろう。こういう場合は、学習塾での勉強が逆に学力の向上を支援するどころか、その力を絶えずそぎ落とす役目さえ果たしていることにもなる。何よりも、勉強は自分で努力してこそ向上するものだ、という勉強に対する基本的な姿勢を誤らせることにもなってしまう。

■有名進学塾の実態

 毎年新年度が近づくと、新聞の折り込みチラシに様々な進学塾の名が踊っている。有名小中高への多数の進学実績を謳い、合格者数がチラシだけでなく塾の表看板に大きく張り出されたりもする。だが、チェーン塾や姉妹塾が多数ある場合、その多くは一塾の実績ではなくそれらを合計した数であることも多い。このあたりの事情は数十年前、進学塾が雨後の筍のように登場してきた時と大きな変わりはない。すでにその頃に今ある進学塾の基本的な形は出来上がっていたのである。しかし、注意しなければならないのは、そういう目先の進学実績ではなく、具体的に子どもたち一人ひとりにどういう指導を行い、学力向上にどのように資してきたかということである。

 かつて屈指の進学実績を誇っっていた塾があった。その塾は当初から大枚を厭わず有名進学校を目指す学力のある子どもたちばかりを集めるのに熱心であった。そして、そういう子どもたちばかりが集まる塾であるということになるとさらに注目を集めるようになった。何のことはない、その塾で有名中学を受験できる生徒を育てたのではなく、初めからそういう学力のある子どもたちばかりを集めただけのことだった。
極論すれば、そこに通う子どもたちは別にその塾ではなくても、たとえば地域の小さな塾、あるいは塾にすら通わず自宅でひとり勉強に励んだとしても合格できる力を持っている子どもたちだったとも言える。そういうカラクリが往々にして進学塾の名声を高めるのに一役買っている。宣伝にこれほど効果的な方法はない。だから、それだけの学力がない子どもがその塾での指導を望んだとしても、入塾試験の段階で蹴られることもしばしある。そういう塾はもともと学力のある子どもは諸手で迎えても、学力のない子を引き受けて育てる意図は初めからないに等しい。つまりは、入塾試験に合格した時点で、その塾のシステムに乗りさえすれば、ほぼ望む中学に合格を約束されたに等しいのだ。だが、世間の人たちはそうは見ない。そういう塾を進学実績の良い塾、指導の上手な塾と錯覚するのである。

 しかし、そうまでして入塾した生徒たちでも全員が有名中学に合格できるとは限らない。だから、塾内では絶えずランク別のクラス分けテストがあり、いわく有名中学受験特訓クラス、いわく一流中学受験クラス、いわく有名中学進学練成クラス…など、名称は塾によって様々でも、有名中学受験志望の生徒を入塾テストや定期テストなどによって能力別・習熟度別のフルイにかけ、その中で差別化を図っていくのに大きな違いはない。そして、合格の可能性の低いところは初めからクラスの子どもたちに受験させず、どのクラスにおいても見かけの合格実績が高まるよう、なるべく不合格者を出さないようなシステムになっている。決して生徒個人の学力を上げることが第一の目標ではないのだ。

 これは学校の習熟度別クラス編成の場合も原理的には同じである。ただ学校の場合は塾のように見かけ上の合格実績から行うというよりは、教師の指導上の都合を優先するからに過ぎない。生徒を集団として扱う一斉指導では生徒の能力がクラスで均一化されていることが必要なのだ。

 繰り返すが、そういう進学塾の何々受験クラスは外部の人間から見れば、そのクラスに入ればほぼ何々中学・高校に合格したような錯覚さえ起こさせる効果があるが、本人にその地力がなければいくら望んだとしてもそのクラスに入ることは許されない。「入ってから良い指導を受ければ伸びるはずだから」という論理は進学塾には通用しないのである。仮に入ってから伸びる子がいるとしても、システム上は基本的に想定していない。入塾テスト前にその力がついていることが条件なのだ。進学実績を売り物にする塾とは基本的にそういうものである。

■クラス替えのからくり

 こうして、クラス分けによって毎回若干の生徒が移動することになるが、その移動はクラス指導の実績を示すというよりは結局は個人の努力によるものである。たとえば、下位のクラスから上位のクラスに移動するという場合、下位のクラスの指導だけでどうやって上位のクラスの指導内容に追いつき追い越すことが出来るだろうか。むしろ、上位のクラスの生徒が零れ落ちたので下位のクラスの生徒で補充したというのが本当のところであろう。クラスに能力の階層化を持ち込めば各クラスはむしろ固定化の方向に向かい、クラス間の移動はその分難しくなるし、クラス間の移動が容易な状態にあれば、そもそも習熟度別クラス分けは大した意味を持たないということになる。

 だとするならば、ある学習塾の進学実績が高いとか、進学人数や進学率が高いということは、学習塾の指導の成果だとは必ずしも言えない。もし学習塾の本当の実績を見ようとするならば、見掛けの数値や評価にとらわれず、どれだけ子どもの学力を向上させるのに貢献したか、将来的に持続的に伸びる力をどれだけ身に付けさせたかということを見てみなければならない。しかし実際は、進学塾にそれを期待するのはないものねだりをするのに近い。個々の子どもの学力を向上させるという発想はそもそも進学実績を誇る塾には期待できないことが多いのだ。入塾テストの段階ですでに篩いにかけ、あくまでも出来る生徒をたくさん集めたいというのが本音なのである。

 また、進学実績を優先する塾にはそれを生徒に強いるという弊害もある。前年と同様、あるいはそれ以上の実績を上げることが当の生徒たちに絶えず課せられることになる。特に、最上位のクラスの場合は、有名中学受験指導と称して、必要以上に難度の高い問題を解かせようと言う傾向にある。それは生徒本人の学力向上という目的だけでなく、それ以上に、それだけ難度の高い授業をしていることを内外に示すという意図もある。電車の中吊り広告に見る有名塾の問題はそういう類のものと見てほぼ間違いない。しかし、そういう受験指導はほんの一部の生徒を除いて必要以上に難度の高い問題を、素早く、出来るだけたくさん解くことを強いる結果になりかねない。そして、生徒が出来ない場合には、一方的に解き方を教え込む授業にもなりがちだ。いわゆる詰め込み型の指導である。進学塾は何よりも結果が全てなのである。

■教えられたがり症候群

 難問は容易に解くのが難しいから難問なのであって、あまり難しくなければそれは難問とは言わない。しかし、難問を自分の力だけで解くことをどの子にも要求することは難しい。だから、必要以上に難しい問題にばかりに当たっている子どもは、とかく正解を教えてもらう割合が高くなりがちだ。自分の解答に自信が持てず、正解は先生が持っていて、自分は正解を教えてもらいそれをしっかり覚えればいいのだと考える習性も強くなる。その結果、自分で問題にじっくり取り組み、自分の頭で考えるという最も基本的な学習のあり方を放棄してしまうことにもなってしまいがちだ。

 だが最近は、この傾向は、実は何も難問を解く子どもたちばかりのことではなくなっている。学習塾が隆盛したことで、小学校低学年のうちから、学校と塾との掛け持ちの子どもが増え、学校で新しい単元に入る時はもちろん、日々の生活の中でも絶えず誰かから勉強を教えてもらい、一人じっくりと自分の頭で考える時間は極端に少なくなっている。いきおい、勉強は誰かが教えてくれたことを覚える作業になり、多少時間はかかっても自分で解くものだと言う意識が低くなる。そこから、少し難しい問題だと分かると初めから自分では考えようとする姿勢を放棄して、ただ正解を教えられるのを待つ姿勢だけが身につくことになる。かくして教えられたがり症候群の生徒の大量発生を見ることになる。

 この教えられたがり症候群の子どもたちは、さらに新たな問題にも直面する。それはクラスの移動のたびに自分がどのクラスに属することになるか戦々恐々とする子どもたちを作り出すことになる。教えられたがり症候群の子どもたちは自分で解くのではないから元々特に勉強が好きというわけではない。ひたすら親や教師の期待に応えたいがためである。真面目な子であればあるほど親の期待に応えなければならないという強迫観念も強い。彼らはそのことのために勉強しているのである。そういう子の場合、上のクラスは望めなくても、少なくとも現在のクラスを維持したいという思うのは自然の心情である。そのクラスを落ちれば明日の我が身はないとさえ思っている。だから、そういう子の場合はなおさら何とか現状のクラスを維持することに汲々となる。そういうぶらさがり症候群の子どもたちの目的はもはや自分の学力の向上ではなくなる。ぶらさがりでも何でもいい、とにかく下のクラスに落とされないことが主要な目的となるのだ。

 入塾したはじめの頃は、希望の中学に合格し、将来は社会で認められ生き生きと活躍できる人間になることが目的であったはずである。ところが、いつの間にかその目標は遠のき、今のクラスにしがみついていることが、当の子どもたちの最大の目的になってしまう。こうなった子どもたちの先に何があるか。周りの子どもは互いに切磋琢磨すべき仲間ではなく蹴落とすべき対象となり、もし隣の子が風邪で休みでもすれば内心喜んだりもする。また、自分の勉強の出来が思わしくなければ、テストの前の一夜漬けの丸暗記はもちろん、隙あらばカンニングをしてでも良い点数を取ってクラスに残ろうとするようなことにさえなる。それが中学受験には悪影響を及ぼすだけだと分かっていても、クラスに居続けることが目標になった子どもにはもはや通じない。塾のそのクラスにいれば何とかなるという神話と親からの強迫観念によって、正常に物事を判断する理解力が半ば麻痺してしまうのだ。たとえその時はそれで乗り切れたとしても、その先に待っているのは「勉強嫌い」になった自分の姿でしかないだろう。

■問われる近代学校教育のシステム

 だが、これは何も塾だけの責任ではないのかもしれない。塾での勉強は学校教育での方式の延長にあるに過ぎない。それを進学に向けて特化しただけである。問われなければならないのは、このような教育の構造を作り出した近代学校教育のシステムそのものである。国家が教育の目標を定め、子どもたちをその履修に駆り立てる。だが、それがどれだけ現実の子どもたちのニーズに沿うものであったのか。高度成長期には見えなかったものが、今無残な姿で露呈しているように見える。

 新たな学びの構築が必要なのだ。子どもの自己実現に沿った、子どもたちの希望、意欲、能力に沿った子どもたちを出発点とした学びの構築が必要なのだ。だが、それはもはや行政・学校に期待すればやがては実現するだろうという甘い幻想の先にはないであろう。

 フリースクールに可能性があるとすれば、そこには従来の学びを拒否した子どもたちがいて、自分たちのニーズに沿った学びを求めている子どもたちがかなり多いという現実があるということだ。勿論、中には学校教育の場で徹底的に心を病み、学びそのものから逃走した子どもたちもいるから、一筋縄ではいかない。しかし、希望があるとすれば、学校で学びを拒否した子どもたちの多くは、実は学びそのものを拒否しているわけではないということだ。不登校の子どもたちは必ずしも学びそのもから逃走したわけではない。不登校のこの現実を見誤らないで欲しい。もし、その学びが自らの自己実現に繋がるという確信が得られるならば、子どもたちは再び学び始めるはずである。学びは単に知的な集積を行う行為ではない。学びのプログラムは方式を変えれば自己回復や自己実現のプログラムにもなり得るのである。

■子どもの学力

 子どもの学力の問題については、以前紹介した『絶対学力』(9歳の壁)でかなり詳しく説明されている。その言わんとするところは、人は12歳までに抽象思考ができるようになる自然なプログラムを持っているが、そのプログラムに逆らって幼少期に先行学習やパターン学習をさせると、考える力が育たず具象思考から抽象思考に変化する「9歳の壁」を乗り越えられなくなる、というものである。
 現在、子どもの「学力の低下」が文科省の言い訳はあるとしても、もはや疑いのない事実となっている。それは、単に以前と比べてペーパーテストの結果が悪いというだけでなく、最近の高等教育を受けている学生たちの行動にもはっきりと見られる現象となっているが、もはや抽象思考をすることが出来ない生徒や学生の大量輩出という結果を生み出している。何を「学力」と見るか、その判定の仕方に問題はないかという問題の設定も一方にはあるが、もはや「学問の府」というものが目を覆いたくなるほど形骸化しているのもまた事実なのである。

 どうしてこういうことになってしまったのか。私はその一つは、子どもたちが学校に通い、塾や習い事に通うことに忙殺され、ひたすら理解し覚えることに1日の時間の大半が使われ、ほとんど自分の頭でじっくり考えたり実行したりする習慣を持つことなく来てしまったことの結果ではないかと考えている。子どもの発達にはそれぞれ段階があり、それに即応する形の教育は効果があるが、徒な先行学習は害にしかならないと言われる。具象思考から抽象思考へと移行するという子どもの思考発達の説(スキャモンの「発達曲線」)を引用するまでもなく、幼少期からの思春期にかけての具体的体験的な学習の欠如がいかに大きな影響を及ぼしているかを見るような気がする。

 人としての基本的な学びを身に付けるべき大事な時期に、学校と塾との往復によってそのような機会を徹底的に奪われてきた子どもたちがそこにいる。人としての学びも、具体的な事象から学ぶ訓練も身に付けることなく成長してきた子どもたちに、いきなり抽象思考の高楼を建てることを望んだとしても、到底不可能なことことである。学力の崩壊、学校教育の崩壊の姿がそこにある。そして、学ぶことを捨て去った夥しい子どもたちがそこから輩出されているのである。その先に何があるのか。

 学力低下論議の中で、高学年になればなるほど勉強嫌いや学びから逃走する子どもたちが増え、高校や大学が勉強や学問の府ではなくなりレジャーランド化している多くの事例が報告されているが、まさにこれから真剣に学問に取り組まねばならない年齢になって、学びから逃走する子どもたちの夥しい群れが輩出されている事実は看過できなくなっている。

 日本の教育問題はすでに1960年代の後半に大学闘争という形で噴き出していた。だが当時は学費闘争や先鋭的に突出した政治運動という形に歪曲化される一方、大学での学問とは何かという問題は根源的に深く追究されることなく大学の正常化という名の下に収束していった。当時の大学はまだ今のように大衆化されておらず、学生たちは問題の本質は理解していたが、特権階級としての子弟という身分に依拠しての行動に過ぎず、日本の教育システムが抱えていた暗部に切り込むほどの見通しも徹底性も持たなかったのである。しかし、大学教育とは何か、大学の自治とは何か、産学協同路線の先に何があるのか、そもそも大学での研究とは何か…というような根源的な問いに対して、教授会を中心とする大学関係者は何一つまともに答えることなく、ひたすら沈黙することによって大学教育批判の嵐をやり過ごそうとしたのである。

 すでにその時、今回のような教育崩壊の事態を招く萌芽は至る所に用意されていたのである。もし、その時、今日の事態を予測できていたなら、もっと対応は変わっていたかもしれない。そのときすでに、大学大衆化の波はひたひたと打ち寄せ、もはや象牙の塔の研究では通用しなくなっていることを理解し始めていたのだったから。そして、従来の大学文化人の存在理由が鋭く問われ始めていたのだから。だが、大学は自ら変わろうとはせず、日本の教育がなし崩し的に崩壊していくことに身を委ねただけであったのだ。今日の事態はその延長線上にあるに過ぎない。大学が変われば日本の教育が変わると、国の特権階級としての大学の自主的な変革に根拠のない期待を抱いたこと自体がそもそもの誤りであったのだ。大学には自らを変革する意思も能力も初めからなかったのである。

 日本の教育の危機はその頃からすでに始まっていたのである。大学教育の文化人を筆頭に日本の教育の問題を台風一過のごとく全て先送りしてきたことの結果である。

■子どもたちに何が必要なのか

 こういう事態に至った日本の教育下の子どもたちに我々として何ができるのか。どうすればいいのか。一言で解決手段を述べるのはとても難しい。教育困難校とか底辺校と言われるところでは、もはや打つ手なしの状態のところもあるようだ。勉強といっても、小学校高学年や中学校低学年のレベルの教科学力さえ満足についていない高校生たちも多いという声が高校の現場から聞こえてくる。
産業構造が変容し、勉強をしていれば自分たちの将来が保障されるわけでもない。学校教育そのものがもはや彼らが生きる次元の問題や興味や関心をひきつけるものからは遠いものとなってしまったのだ。だから、彼らにとって高校生活とは何の努力もせずにモラトリアムを楽しむ場であり、高校は卒業資格さえ得られればそれでよいところとなってしまった。今の時代、そういう子どもたちの多くも一応大学には進学はする。だが、そこにあるのはすっかりレジャーランド化した学園の姿であり、学生たちに「〜をしてないけない」という『学内行動の心得』のような文書さえ配布しなければならないという笑い話さえ真剣に考えなければならない事態にさえ至っている。

 そういう中になまじ真面目に勉強に打ち込む子がいると、変わり者として特異な目で遇されることさえある。そして、ついには学校の中に居場所さえ失い、学校を去ることにもなってしまう。中学や高校の現場でそういうことはもはや珍しいことではなくなりつつあるし、大学は遊ぶところと心得たり、ということはもはや常識とさえなっている。そういうことが嫌で中学時代に不登校となり、定時制の高校に進んだが、やはりそこにも居場所はなく、大検と併用して高校にさっさと見切りをつけた子どももいる。だが、そうして入った大学もまた同じだったのである

 一般に不登校になる子どもは、概して人間関係が苦手で、教科学習も放棄している子が多いと思われている。確かにそういう子どもたちもいる。今の学校教育の現場では、そういう子どもたちが作り出されることは避けられない。先のような理由で学校を放棄した子どもたちもまた多いのである。しかし、そのようなレッテルを貼られることは彼らの本意ではない。だが、学校教育の見方からすれば、それは一様に学校不適応、情緒障害のある子どもたちということになってしまうようだ。そういう子どもたちを受け入れているフリースクールでも、子どもたちをそのように見ていて、大した学力のサポートもしないところも見られる。だが、果たしてそれは正しい接し方であろうか。

 以前、「学びからの逃走」を取材に「ぱいでぃあ」に訪れた記者がいたが、「フリースクール=勉強をせず遊ばせているところ」という固定的な図式を持っている人が教育にかなり詳しい人の間にも多いのである。事実、うちのフリースクールにも、他のフリースクールでは勉強を教えてくれなかったので、進路の選択にとても困ったと相談に来る家庭もある。また、意欲を引き出そうという関わりに対して、「まだ十分にひきこもっていないから」とか「学校的な学びを拒否する」などという奇妙な論理で反対する親もあるのだ。だから、フリースクールに通いながら学校に行っている子どもたちに負けず劣らず勉強している実際の姿を見てもにわかには信じがたいという表情をすることもある。フリースクールに題材をとったテレビドラマ「キッズウオー」などの影響もあるのかもしれない。だが、それは決して事実を正確に伝えているとは言えない。

 「子どもたちは学びたがっている」といったら強調しすぎかもしれないが、学校教育の現場を離れたとはいえ、子どもたちは学べるようになることを求めているのである。確かにそれが子どもの思いというよりは親の思いであったり、勉強に遅れることを心配しての発言であったりする場合もあるが、意外なほどに「勉強は嫌いだ」という子どもは少ないのである。ただ、「学校に通っていなければ勉強が出来ない」と考えている子どもも多く、それが時には、身体や神経がボロボロになっても何が何でも学校にしがみついていようという思いから自由になれなかったり、「学校を離れてしまえば勉強はおしまいだ」という思いになっていることもまた多い。

だから、「ぱいでぃあ」にやってきた子どもたちが、ここは心の避難所でもあり、新たな友だちとの出会いの場でもあり、心身のリズムを取り戻しながら、自分の自由意思に基づいて活動も勉強も出来る場であるということを知った時、環境や条件、そして適切な援助さえしてあげれば、彼らは誰に命令されることもなく自主的に勉強するようになっていくのである。勿論、中には誤った勉強に対する思いで学校時代に周りから傷つけられた子もいるが、こうして、正しい勉強への取り組みが出来るようになっていけば、自分の自信の回復にも繋がることを自然に体得していくのである。だから、「ぱいでぃあ」に通う子どもたちは、「ぱいでぃあはどんなところか?」と聞かれたならば、「勉強もスポーツも、その他の活動もできるところ」と自然に答えるであろう。

だが、では「ぱいでぃあ」というフリースクールは勉強の出来る子どもたちばかりが集まってくるところかといえば、決してそうではない。あるフリースクールから相談に来た親は「ぱいでぃあ」の子どもたちを「不登校のエリートたち」と評した。事実、「ぱいでぃあ」に1〜2年通った子どもたちはほとんど元気になって次の進路に挑戦し、公立高校や私立進学高校などに進んでいく。だから、現象だけ見ればそう見えなくもない。だが、それは表面上の結果に過ぎない。

彼らが最初に「ぱいでぃあ」にやってきた時どうであったか。みな自信をなくし、ほとんど寡黙であったり、人と視線を合わせられずに頭を垂れていた子どもたちであった。昼夜逆転をしてほとんど世間から孤立していたり、無残なほど自分の責め苛んでいた子どもたちであったのだ。また、学校から知的障害のレッテルを貼られたり、一切その子の価値を認められなかった子どもたちであったのだ。そのように傷ついていた不登校の子どもたちにどう接するか。

フリースクールとはいえ、マジックのような方法があるわけではない。あるとすれば、人の子として生まれてきた以上、どんな子どもにもその子独自の良さがあるはずであるという信念である。この信念、子どもの可能性への信頼があればこそ、それぞれの子どもたちが持っている可能性や意欲、時には学校の先生ばかりでなく親さえも気付くことのなかった能力に気付くことが出来るのである。「ええー、本当ですか?!」という言葉を何度教育現場の先生から聞いたことだろうか。

だが、これはフリースクールと家庭や学校との良好な関係があって初めて可能なことでもある。たとえば、何かあるとすぐに親が自分の価値基準や出来合いの理論を鵜呑みにして子どもとの間に割って入るとか、どうしても子どもを自分の領域から自由に出来ないとかの場合には、それがとても難しいことになる。何をしようにも、日本の場合には親の権限が絶対なのである。たとえ、子どもの原因の大半が親との関係−たとえば親が子どもの自由意志を奪っているのではないかなど−にあるのではないかと考えられる場合にも、親の意向が変わらなければ関わりが難しい場面がしばしばある。逆にそこの関係が良好である場合、子どもの回復や立ち直りは意外なほど早いのである。

■「フリースクール・ぱいでぃあ」での学びについて

 子どもたちがそのように立ち直るためにも、フリースクールでの学びはとても大事である。ただ、そこでの学びは学校での学びとも塾等での学びとも大きく異なっている。いや、それらの学びとは全く相反すると言っていいかも知れない。なぜなら、学校や塾での学びの方法とフリースクールの(少なくとも「ぱいでぃあ」の)あり方とは、学びのベクトルの向きが全く逆だからである。
学校での集団指導にせよ塾での進学指導にせよ、子どもの前にまず学ぶべき目標が定められている。それに子どもたちを合わせることになる。そうしなければ評価ができないし目標も達成できないというわけだ。だが、「ぱいでぃあ」ではそういう方法は取らない。子どもの学びとは、子どもが今生きて生活している日常的現実からまず出発すべきだと考えているからである。また、学びとは、どこかに正解を持っている先生がいてその解き方を理解し記憶するというようなことではなく、子どもたち一人ひとりが自分の力で一歩一歩解き方を発見し理解を深めていく行為だと考えているからである。

 だから、「ぱいでぃあ」の学びでは人と比較することは意味を持たないし、一人ひとりの学びの方法や進度もみな違っている。逆に、人に遅れを取ることもないし、自分の力で解決していく行為の積み重ねは、確実に自分の理解力の向上の確認ともなる。学校や塾での勉強が、自分の理解力の至らなさを知らしめられる結果さえも招くことになるのとは対照的である。

 しかし、そのためにはフリースクールでは学校や塾では見られない困難や努力を絶えず強いられることになる。子だもたちが学ぶ学習材の選択一つとってもそうである。正直言って学校や塾の教材はそのままでは全く使い物にならない。それらの教材は正解を握っている先生が主導権を握って生徒を指導するために作られているのである。だが、「フリースクール・ぱいでぃあ」は学校でもないし塾でもない。まず、子どもたちが主体的に学びを組み立て推進する場なのである。そのためには子どもたちが自ら学べる学習材でなければならない。その学習材選び・組み立てに心労を注ぐことになる。出来合いの教材では役に立たないし、子どもにおもねた教材は何よりも子どもたち自身が見抜いてしまう。同じ中学生とはいえ、小学校の低学年に戻ってやらなければならない子どももいると同時に、学年用の教材を半年ほどで終わらせてしまう子どももいる。その子どもたちに自ら学びを組み立てるというやり方で関わらなければならない。そこに学校や塾でのように先生ための指導書は存在しない。そんなこんなの関わりを通して、ある子どもたちには学年割の教材よりは無学年一貫の学習材が適しているのではないかという発見もあった。

 だが、フリースクールはどんな子どもがいようとも、進学指導の塾ではない。徹底して体得してもらおうとするのは、あくまでも基本的な問題認識の徹底であり、現実の様々な場面においてどのように考えられるか、どうするのがいいかというようなことの連続である。入試にどんな難問が出ようとも、そういう問題には基本的に焦点を当てない。難問に挑戦することは本意ではないし、害多くして利が少ないと考えるからである。だが、ここでも誤解して欲しくないのだが、「学力低下」の切り札として風靡している百マス計算や基礎基本の反復パターン学習も基本的に採用しない。『絶対学力』の著者・糸山氏も言っているように、その繰り返しは「考えない」「条件反射」的思考の頭を作り出すだけからだと思うからである。

 「フリースクール・ぱいでぃあ」の「ぱいでぃあ」とは「あそび・まなび」を統合した言葉だが、「遊び」は具体的な人間関係の場面からイマジネーションの駆使まで含めて実に多様であり、この現実世界もまた、「現実は地獄よりも地獄的である」という言い方があるように、実に多様なのである。教科書やペーパーテストでの学びは、その多様性の中からほんの一部を切り取ったものに過ぎない現実の中からいかに学びを汲み出すか、それが「ぱいでぃあ」の学びの肝要である。教科書だけが学習書ではない。学ぼうという姿勢があるならば、本は現実世界の至る所に開いている。そこから何をどのように学び取るかはとても重要である。そして、戻るべきもまた自分が今を生き、日々人として成長しつつある多様性の現実世界の中なのである。


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