遊びの教育学

1999/03
遊びの復権を目指して --- 人は遊びを通して人間になる

フリースクール・ぱいでぃあ代表 馬場 章

■子どもたちから遊びが消えていく

 先週は「子どもの学びと育ち」ということについてでしたが、今週は「遊びの教育学」というテーマでお話しさせていただきます。
 「教育学」なんて大それたことを言っていますが、簡単に言えば、遊びが子どもにとってどれほど人間教育学的な意味をもっているかということを少しお話しさせていただこうかなということです。

 私がなぜこんな「遊びの教育学」というものをお話しするかといいますと、誰もそんなこと言ってくれないんですね。確かに、これまでも子どもの遊びについてはいろいろな方が取り上げています。たとえば、それは子どもの遊びの形態であるとか子どもの遊び方の指導であるとか様々です。けれども、それはほとんどが子どもの学びとは別のところでのお話であったり、学びに付随するものとしての遊びの話であったりで、まともに教育の中心に据えた話というのはほとんどみかけないわけです。公教育に携わる先生の間でもまともに取り扱おうという人は少ないように思います。幼稚園や養護学校など公教育の周縁的な存在とみなされている所で取り上げられているのがほとんどだと思います。また一般の人の間でも旗色があまりよくありませんし、教育熱心な家庭では勉強に敵対するもののように受け取られたりもしています。
 どうも遊びというものが様々に語られている割にはあまり重要視されていないというか、その意義というのがよく理解されていないのではないかということを感じています。
 小さいお子さんがいる場合には、「遊ばせなきゃダメよ」とか「遊びは大事だよ」とか言いますが、やはり第二義的な価値しか考慮されていなくて、特に小学校に入学して学校の勉強が始まる時期になりますと、「遊んでばかりいないで勉強しなくてはダメよ」というような形で子どもに迫っていくようになりますね。

 今、いろんな形で子どもの遊びが壊れ始めている、子どもが遊ばなくなっている、遊べなくなっているように感じています。後でもお話しますが、学校の中でも遊びがどんどん消えていっています。遊具そのものが学校の中から消えつつあります。私が子どもの時からしますと今学校の中の遊具が非常に少ない。これは危険だとか危ないとか、いろんな理由で、中にはブランコさえない所もあります。鉄棒も外すとか、ユウドウエンボクなどはとうの昔になくなっています。それは子どもを危険から保護するという意味があるのでしょうが、どこかおかしい。もっと大きく考えると、日本の社会そのものが遊びの価値というものをどれだけ認識しているのかということになります。
 確かに、テレビのお笑い番組をはじめ擬似的な遊びというものはたくさんあります。遊びに似せたものは至る所にあります。しかし、本当に遊びと言えるものが社会の中から失われていっているのではないかという気がします。それは、非常に危ない傾向ではないかという気持ちがしております。

 そこで、子どもの遊びというものが子どもの育ちや子どもの教育においてどういう意味を持っているのかということを一度自分の中で組み立ててみて、それが皆さんにどう受け取っていただけるかなあと思ってお話しすることにしたわけです。
 
■人間は遊ぶ動物である

 遊びというものを考える時に、やはりその前にどうしても人間って何なのかということを考えます。前回の講座では、「学ぶ」ということを取り上げましたが、それとも関連してくるかなと思います。

 人間とは何かという時によく取り上げられるのに、朝には4本足で、昼には2本足、そして夕べには3本足のもの何だ、というのがありますが、人間存在というものの考察はギリシア・ローマ、その前の昔から人間自身が問うてきたものですね。その中で、人間というものについて言われているものに、一つはホモサピエンス、知的人間、人間というのは知性を持つ存在である、考える存在であるというのがありますね。それからホモファーベル、工作的人間、これは人間は物を作る存在であるということですね。人間は手を使い、物を作ることで文化・文明を発展させてきたという考え方がそこにあります。その他ホモエレクトス、人間は立って歩く動物だという見方もあります。ここで、それにもう一つ付け加えたいのはホモルーデンス、遊戯的人間、人間は遊ぶ存在であるという考え方です。

 社会の中には様々な人間の活動があります。学問、芸術、労働、戦いまで多様な人間の活動というのがありますが、その元になっているのは何なのだろうか。それを捉えなおしてみると、非常に面白い人間の考察ができると思います。それを考察した人の中に、オランダのヨハン・ホイジンガという人がいました。二〇世紀初頭の人です。第二次世界大戦前ですか、世界が危機的な状況に陥っていく中でこの人が長年の研究を発表したものですけれども、それが『ホモルーデンス』という著作です。私の遊びの話もおおむねこの人の考えを下地にしています。

 つまり、人間というのは本来的に遊ぶ動物なんだと。たとえば、スポーツというものにはルールというものがあります。また、たとえば仕事をする時にも、私たちはお金のために、家族のために、生活のために働いているわけですが、果たしてそれだけだろうかと考えた時に、そこには単に金や地位や名誉ではない、働き甲斐、働く喜びというのがありますね。それは何に基づくのだろうか。それから、戦争というものがあって、昔から「やあやあ、遠からん者は音にも聞け…」というように非常に儀式化したものがありました。日本の甲冑や鎧などを見ても、あれがどれだけ実戦で役立つのかと言ったらちょっと疑問ですね。あれは一種のデモンストレーション、見せです、誇示するものですね。また、戦争は戦い・殺し合いには違いないですが そこにもやはり暗黙の了解事項、ルールのようなものがあります。
 そういうふうに、我々人間の生活の中のいろんな所に遊びの要素というのはあるのじゃないかという感じがしています。そういうことを踏まえて考えてみたいと思います。

■遊びとは何か

 では、遊びとは一体何なのだろうかと言いますと、遊びというのは強制されてやるのとは全く質を異にしています。要するに、自分から進んで積極的にそこに参加して、ある一定の時間と空間を共有することで共にその喜びを享受するものですね。それが遊びというものの一つの定義です。そこでは一人ひとりが自分の主人公です。

 「遊び」という言葉が辞書でどう出ているか見てみますと、フランスの辞書(Petit Larouss)では次のように出ています。「それがもたらす喜びの他にはどんな目的も持たない、熱中している意識における、純粋に無償の身体的精神的な活動」とあります。要するに、遊ぶそのことが目的であり、それによって得られる喜びを得ることがその遊びの中心的な意味なんですね。これは日本の『広辞苑』を引いてもだいたい同じようなことが出てきます。「意義や目的にかかわりなく興のおもむくままに行動すること」とあります。そういうものとして遊びというものがあります。

 そして、この「遊び」と「学び」というものがどういうふうに関わってくるかといいますと、日本の学校教育の中では、遊びと学びというものは対立するか、あるいは学びの一部に補完的なものとして組み込まれているものとして考えられています。だから、学校教育の中では遊びは教科としては入っていませんね。遊びの教科というのはないんです。遊びは勉強が終わった後の休み時間に行うものか、あるいは課外的な活動として行うものになっています。
 ところが、ここで私が言いたいのは、最初に人間的な身体的精神的な活動して遊びがあって、特に小さな子どもにあっては学びは遊びと未分化の状態にある、そして、学びというものも遊びの領域の中に含まれるものとして考えるわけです。その場合、この学びというのは遊びの中の知的な活動を中心とするものと考えてもいいと思います。本来、遊びと学びとの関係はそういうものとしてあるのではないかと考えています。
 そこの捉え方の違いによって、たとえば子どもの成長や育成にどのように大人が関わっていけばいいのかということが全然違ってくるのではないかと思います。

■人は二度生まれる

 そういうことを考えますと、たとえば子どもがこの世に人として誕生して、やがて一人前の人間として育っていく過程というのは、これは私の仮説ですが、人間の誕生には第一の誕生と第二の誕生があるのではないかと考えるわけです。

 第一の誕生というのは、人間の生物学的な誕生、要するに卵子と精子が受精合体しやがてオギャーとこの世に誕生してくるまでの過程ですね。その過程の中で赤ん坊はこの世の中で人間として生きていける身体的な特徴というのはすべて備わって生まれてくる。たとえば、その過程には鰓(えら)が生え、水掻きができ、尻尾が生え、体毛が生えて、要するに地球に生命が誕生して以来の生命の進化の歴史を全て辿ってその最終段階の一人の人間の子どもとしてこの世に生まれてくる。これが第一の誕生、つまり人間の生物学的な誕生ですね。

 ただし、人間の子どもはそれだけでは人間にはなり得ない。そのためには第二の誕生を経なければならない、こう思うわけです。この第二の誕生というのは、人間というのは他の動物のようにただ生得的な本能に従って自然のあるがままに生きていくわけではなく、人間は社会をつくり、文化をつくり、その中で適応して生きていくわけです。ですから、その中で人間らしく生きていくものを身につけていかない限りその子どもは人間として生きていけない。

 かつて一九二〇年頃、インドでオオカミに育てられた二人の子どもが発見されたことがあります。その子どもたちは四つ足で歩き、オオカミと同じように行動し、オオカミのような感情を持ち、死ぬまで人間としての豊かな感情や言葉をほとんど身に付けることがなかったと言われています。その子たちは人間的なものを身に付ける時期にオオカミに育てられオオカミとして育ってしまったわけです。
 つまり、たとえ人間の子として生まれてもそれだけでは人間にはならない。人間の皮をかぶり、姿や形は人間であるけれども中身は野獣であるということにもなる。そう考えると、人間として生まれた子どもがやがて知・情・意を備えた一個の人間として社会の中で生きていける資質を身につける最も基本的で最も原初的な活動がこの遊びというものなのではないか。人間的な環境という条件が充たされていれば、人間の子どもはそういう活動を行えるように、そういう能力を生得的な形で身につけてこの世に生まれてくるのではないか。そして、それは子どもの遊びという活動を通して行われるのではないか、ということです。

 ただし、この遊びは人間だけが行う活動ではないですね。他の動物にも遊びではないかというものが認められます。たとえば、丹頂鶴の舞いなんていうのは優雅なものですね。また、狼や狐などの生態をテレビなどで見ますと、子どもが互いにじゃれ合ったりかみ合ったりしています。ライオンなどでもありますね。あれは何のためにやっているのでしょう。

 専門家の方はどう言うか分かりませんけれども、私の一つの見方ですけれども、人間以外の動物というのは絶対に仲間をかみ殺さないですよね。どんなにかみ合い争っても相手が腹を向けるとか、尻尾を巻くとか、目をそらして後ずさりするとか、参ったの合図をすれば絶対にもう攻撃しないですよね。そこに彼ら独自の了解事項、文化というのがあるのではないかと思います。人間だけですよね、アホなことをするのは。ところが、草食動物にせよ肉食動物にせよ、そういうことはやらない。それはおそらくあの遊びのような行動を通して自分たち同類のものは殺し合わないというルールを学んでいくのではないか。そんな気がするんです。

 そういうような遊びというものを人間の子どももやらなければ、本当の健全な人間にならないのではないか。先ほどのオオカミに育てられた子どものように、もしそこで子どもが人間としての遊びというものを欠落したまま育てば、おそらくどこか人間として欠陥のある欠落したところのある人間ができてくる可能性がないだろうか。そして、その遊びというものにはその後に様々なものを学んでいく上での最も基礎的なものが未分化のままカオスの状態のまま内包されているのではないか。

 そう考えれば、子どもの遊びということは、人間の成長にとって絶対不可欠な人間形成のための根幹をなす「道場」なのではないかという気がするわけです。そして、その中に子どもは自らを形成するために、自らを人間としてこの世界に誕生させるために喜びをもって関わり参加していくわけです。どんな人間にとっても自分が成長していく、学び完成していくというのは喜びなんですね。そういうように動物が遊びを通して獲得すると同じようなことを、人間の子どもも人間として自らを形成するためにやっているのではないか。この世に誕生するまでの過程において胎児が生命誕生の歴史をものすごいスピードで辿るように、遊びの活動を行う子どもの内部では、人類誕生から今に至る文明文化を築き上げた社会的人間というものの最も基本的資質の獲得を瞬く間に体現していっているのではないかと思うわけです。
 その中にはもちろん勉強するための「知」も含まれるけれども、それは人間の全体的な形成の活動からすればほんの一部、それも脳の活動の一部をより活性化させようとするものに過ぎない。もっと全体的な人間的な活動というものを考えた時に、人間の子として生まれた子どもが人間的な人間となる学びの場として、大きく言えば第二の人間誕生の活動として遊びというものがあるのではないか、そんな感じがしています。

 ただ、動物と人間の場合にはやはり違いがあって、動物の場合にはおそらく無意識のうちに、本能の次元というか生得的生物学的な次元で遊んでいて、それ以上の発展というのはないようです。つまり、遊びを通して成長することはあっても、自然に従属して生活するという基本的な条件は変わらないわけです。
 ところが、人間の場合には根幹に人間特有の遊びがあって、そのようなものから社会や文化を創り上げてきたわけです。そして、これは人間の遊びの場合の特徴ですが、どんな小さな子どもの場合でも、自分は遊んでいるんだ、今自分のやっていることはお遊びなんだ、本当のことではないんだという意識を持っているということです。どんなに遊びに熱中していても、この意識は必ずある。そしてその意識の中で遊んでいるわけです。ですから、そこから一歩退けば遊びの世界は即座に消えるし、その約束事を破れば自分は遊びの世界から締め出されるし、遊びそのものが壊れてしまうことも意識しているわけです。ですから、単に現実の必要に迫られて行動している次元とは全く違っていて、自らの意志で関わりながら、それに熱狂する自分を楽しんでいることを自覚しているわけです。ここに人としての遊びの特徴があり、文化的社会的発展への可能性が秘められていることになります。

■遊びの特徴

 遊びにはどんな特徴があるのかということは、ここではあまり意味がないかもしれませんけれども、一つの特徴として、ある一定の空間と時間の中で展開するということがあります。遊びというのは必ずある特定の場の中で展開します。原っぱとか幼稚園の遊び場とか、そういう一つの独特の場というのがある。そして、遊びには必ず始まりがあって終わりがあります。そういう独特の時間的世界の中で行われます。
 ただ、遊びというものは、「遊びなさい」と大人がいっても遊べるものではないんですね。それは不思議なほど子どもの中から出てくる自然な自発的な欲求であるわけです。そして、主体的に自らの喜びをもって参加していくんですね。

 また、遊びにはどんな小さなものでも、規則というもの、決まり、約束事というのがあります。参加する子どもがその決まりを承認することによって初めてその遊びの輪の中に、遊びの作り出す世界の中に入れるわけです。ですから、遊ぶためにはその約束事をみんなと同じ条件で受け入れるということが絶対必要なわけです。それで初めて遊びの一員となるわけです。
 それはどういう決まりかといいますと、その遊びの中で互いに承認されている決まりですね。もし、その中でこの決まりに従わない者がいると、遊びはシャボン玉がはじけるように壊れてしまう。ですから、遊びの中でこの約束事、決まりというのは絶対的な承認事項であるわけです。そして、その決まりの中では絶対に公正なわけです。勝つための不正は絶対あってはいけない。たとえば、トランプをしている時、一人ひとりがそれぞれに対等な立場に立って一つの決まり事を承認し合って参加する、それが遊びなんですね。

 しかしまた、それは絶対に本当のことではない。すべて嘘のことなんですね。ママゴトをしている時、子ども自身はその役割になりきっています。なりきる中で演じているんですね。泥のお団子をこねたりして一生懸命やるわけですけれども、それは生物学的次元での、あるいは現実生活での必要や利害の次元での、たとえばお腹がすいただの、何か欲しいだの、こうやれば儲かるだの、そういうものとは全く次元を異にした、ただそれを行うことによって喜びを得るためだけの無償の行為なわけです。そこで得られる楽しみや喜び、これだけが目的なんですね。ただ、それを行う子ども達の間では、その非日常的な時間と空間というものがしっかりとそれぞれの意識の中では共有されているわけなんですね。遊びとはそういうものです。

 ですから、人間の行動の中で、人の身体というのは普段は仕事するため、食べるため、あるいは殴るためとか、いろいろとあると思うのですが、そういう何かの効用のため、目的のために使います。ところが、遊びというものはその遊びの行為自体が目的なんです。だから、肉体にたとえればダンスみたいなものですか。ダンスは何のためにやるのか。正にその踊りそのものの素晴らしさを演じるためにやるんですね。指の先の形から、体のひねり具合、腰の使い方、そういう一挙手一投足がただすべて踊り、ダンスというものに捧げられる。何かその行為以外の目的を目指しているわけではありませんね。遊びもそういうものです。まさにその行為自体を演じる、それ自身が目的です。
 そういう行為を行うこと自体が、子どもにとっては最高の喜びなんです。その喜びを得るためには、子どもはつらい思いをしてでも必死に頑張ります。今ちょうど雪が消えましたけれども、「ちょっとそこの雪かきをしてちょうだい」と仕事を頼むと「えーっ、冷たいよ」と言います。ところが、遊ぶ子どもはそんなことは厭いません。手を真っ赤にして、手をかじかませても一生懸命雪を握ろうとします。そういうものです。ですから、遊びの喜びを得るためには多少の苦しいこと、辛いことにも耐えて頑張るんですね。そして、一つ事に気持ちを集中させるんです。勝負事をやるのでも、他の遊びでも子どもはものすごい集中力を発揮します。そして、お互いの仲間との緊張、集中力、そして喜びというのを共有するんです。それが遊びというものですね。まあ、難しく言えばそうなります。当の子どもは全然そんなこといちいち考えながら行動しているわけではないかもしれませんが。

 ところが、私たち大人が遊びというものを考える時に、子どものような現実に何をもたらすわけではない無償の行為というものをなかなか納得できないんですね。大人の場合には、子どものように純粋な形で遊ぶということはほとんど出来なくなっています。何をするにも、そこに現実的な代償を期待してしまうんです。パチンコ一つにしても、子どものようにそれをする楽しみというものはあるでしょうが、やはり利害が絡んでいます。スポーツでもそうです。そこに何か遊び以外の要素が大きく入り込んでいます。プロのスポーツになりますと特にそうですね。純粋に無償の行為として遊ぶということが難しくなっています。それだけ、大人の心の中から純粋な遊びというものが消えていっているのだろうなと思います。

 ただ、先ほども言いましたが、ただつまらない仕事を二六時中やっているお父さんはだんだん草臥れてきます。職場の中でも自分に働く意義を見いだせない仕事を続けている人は心が死んできますね。だから、大人の中にも、単にお金だけではない別の喜びを求めるものが、体の奥底に絶えず生き続けているいるんだと思います。

■遊びの効用

 遊びの効用というものについては、いろいろな方々が述べていることでもありますから多くは触れませんので、資料を見ておいてください。簡単に触れますと、一つは運動することでどういう効用があるか。特に指の運動、手の運動の場合ですね。何か物を作る、道具を使って物や自然に働きかける。小さな物はハサミから大きなものはマサカリみたいなものまで。

 私は田舎の家にいた頃は薪割りをしていました。これは遊びではなくて日課でしたけれども、やはり面白かったですね。それから、ナイフで丸太を削って木の独楽も作りました。誰に命令されるわけでもない、自分の楽しみのために指に血肉刺(ちまめ)を作ったりしながらやっていたんですね。そのことで言えば、そこに物を作る喜びとか、何かに働きかける、さらに言えば労働する喜びまで含まれています。

 それから、遊びの中で注目しておきたいのは、集団社会性の感覚の習得ということです。もちろん単独の遊びというのはありますが、遊びは集団の中で行われることが多いと思います。昔私が子どもの時は、鞍馬天狗とか赤胴鈴之助とか、ひょっこりひょうたん島はちょっと違うかな、いろいろチャンバラの物真似遊びがありました。要するに、切った、張った、殺した、そういうような遊びですね。泥棒ごっこ、ギャングごっこ、チャンバラごっこなど、悪役が必ず出てくるんですが、「死ねっ」と言ってばっさり斬りつけるとか、切られて「うーっ」と言って倒れるとか、殺し合いをする。遊びの中で殺人の疑似体験をする、これは非常に大事なことなんですね。そういうような世界を虚構の中で体験し学ぶということは非常に大きな意味を持っていると思います。そういう体験を経ながら、社会的にバランスのとれた人格が形成されていくのではないかなと思います。その中で集団のルールも学びます。必死に頑張る忍耐力も身につけます。ただ、子どもの集団ですから、いろんな対立も生まれますし喧嘩もします。行き違いから殴り合いも時にはあるでしょう。その中で悔しいことも学ぶし耐えなきゃいけないことも学びます。そして、じゃあどうしたらうまくやれるかという知恵も学びます。いろいろな人間観察も出来ます。「あの兄ちゃんは怖いから」とか「あの子はやさしいから」とか、人間の心理も読めるようになります。ゴマのすり方まで覚えてしまいます。これを一つひとつ学校の中で教えようとしたら大変なことですよ。それを子ども自身が遊びの中で、遊びを通していろいろな子どもと関わる中でちゃんと身につけていきますよね。不思議なものですね。

 そういう中から、イマジネーション、いろいろなことを想像する力も身につけていきます。それは、やがては自分が何か独創的なものを考えていく力にも育っていきます。何か偉大な発明とか、素晴らしい仕事を成し遂げた人というのは、子ども時代に型にはまらないというか、型からはずれているというか、夢見る少年であったりとかが非常に多いですね。その現実の遊びの中から想像力を働かせている。大人からすれば、「この子どこかおかしいのではないか」と思うほど何かに食らいついて考えたり夢想していたりします。そういうようなものを身につける子もいます。ですから、当然そういう中で知的な想像力や創造力というものも養われていきます。子どもというのは、遊びの中に没頭することで、誰に命令されることもなく自分というものを作り上げていっているのだと思います。

 また、そういう物を作ったり物を対象とする遊びなどを通して、どうすればどうなるか、どういうふうに組み合わせれば一番いいかとか、数学算数的な図形認識能力とか、計算能力とか、造形能力とかも養われていくと思います。
 そしてまた、自治の能力というもの、自分で律して自分で行動していく、また自分で行動してぶつかっていくことでそこから体験的に学んでいく、そういうものも言われなくても身につけていきます。

 それから、もう一つ大きなものとしては、癒しの効果というものです。今、遊べない子どもというのがいますね。以前子どもたちと上野動物園の見学会に行ったことがあります。表だけでなくヘビなどがしまってあるところとか裏の方のいろんな所まで見せてもらいました。とにかく狭いですね。我々見る方としては楽しいですけれども、閉じこめられている動物にとってはすごく可哀想なことだと思いますね。生まれ育った自然から切り離されて、檻の中で生活しています。床も土ではなくコンクリートです。だから、自然の中でのようにはつらつと活動はしていませんね。動いている動物はどうかと言うと、常動行為と言うのでしょうか、同じパターンの行動を何回も繰り返しています。行ってはまた戻ってきたりして。

 これは人間の社会だったらどこで見られると思いますか?人間の社会の中にもあるんですね。特に精神病院の閉鎖病棟の中ですね。心に病をもって隔離された人たちがそういう行動をしています。本当は可哀想なんですね。精神的な病を持った人こそ本当はもっと開放されたところで、自然に触れるところで暮らすのが癒しには一番いいのではないかと思うんですが。残念ながらそういう人は人目に付かないように隠してしまう発想になっています。もちろん、何を考えているか分からない人が自分の周りをうろついていたら怖いということはありますが、何かもっと違う方法はないのかなあという気はしますね。

 自然の中で暮らしていた動物がコンクリートの床の檻の中に入れられると胃潰瘍になったりストレスをためる場合が多いようです。そして、毛が抜け落ちたりする。その動物を解放して土のあるところに出してやりますと、動物は土の上で体を転げ回したり、土を口の中に頬張ったりして喜ぶそうです。ですから、人間の場合も、集団の中に開放されて遊ぶということは、一つには虐められたり苦しめられたりする場面もあるかもしれないですが、本当は心の安らぎになり癒しになるということが非常に多いんですね。

 たとえば、肉体労働をしたりスポーツをして筋肉を使って疲れるというのは、普通は寝て休めば、翌朝には、極度の疲労を除いては解消されるものです。ところが、環境や状況によってじわじわと精神的に溜め込んだストレスというのはなかなか解消されない。そういう時には、自然に触れて心を癒すとか、あるいは集団の中でだべって癒されるというのがあります。
 ある施設では処罰として独房に閉じ込めるというのがあるようですが、隔離して光も音も全てを遮断して閉じ込めると人は3日と持たないと言いますね。気が狂うそうです。ですから、人と人との交わりというのは一方ではとても煩わしいということもありますが、遊びとしてただそこに喜びとして仲間として関わっていくということが子どもにとってどれほど癒しになっているかというのがあると思います。

 で、最後に知力ということですが、やはり子どもは遊びを通して学んでいくという部分が多いと思います。特に就学年齢前の子どもにとっては遊びというのは最大の学びです。学問以前の、文字や計算力を身につける以前の土台づくり、土壌づくりというのが遊びという行為の中で行われるのじゃないだろうか。

 もちろん、人間には親の形質遺伝というのもあります。親からいろいろなものを受け継ぎます。そして、それぞれの家庭によって環境も違います。核家族のところもあれば3世代同居のお家もあります。両親とも働いているお家もあればお母さんがお家にいる家族もあります。そういうふうにいろいろな形で子どもは環境などに条件付けられているわけですが、ただ人間というのはそのような条件に甘んじ従属しているだけの存在ではない。その条件を飛び越えそれを変えていく能力を本来的に持っているわけですね。これがあったから人間は自然に屈することなく、こういう社会を作り上げてきたわけですね。

 その基本的な能力というのはやはり子どもの時に遊びを通して培われるのじゃないだろうか。ただその本能に従うのではなくて、その環境に働きかけて自らをそこに適応させると同時にそれを乗り越え作り変えていく、自分を絶えず変容させていく、そういう力を持っているんだと思いますね。

■遊びを疎外する環境

 しかし、今非常に難しい問題が起きています。非行の問題があります。集団の中に溶け込めない。それから、自尊感情の欠如というのが非常に多いですね。自分自身を肯定できないということです。これは、やはり今の教育制度が責任を負っている部分が非常に大きいと思います。それから、心身の不調があるということ。そういうように、今いろいろな子どもの世界の中で起きています。ところが、それを子どもの時代に解決できなかった人が20歳を過ぎて、大人になっても引きずっている場合があります。ただ、大人になれば子どもの時の問題は解決するというわけじゃないんですね。そういうのが今すごく出てきています。発達課題というのか、子どもの時にやるべきことをやれなかった子どもというのが後々までその負債を抱えて生きなければならない。そういうことにもなります。そのことで、大きくなった子どもだけではなくその親自身も一緒に苦しんでいる場合があります。そういうことも含めて、やはり今乳幼児期の育ちというのが問題になっているのだと思います。

 子どもは生まれた時から自分が成長するために何かを求めていますね。これは、実は生まれる前からそうです。子どもは生命が宿った時から母親に働きかけています。お母さんのお乳が張り、腰回りが太くなり、皮下脂肪が付いてきます。それは胎児のために母親が快適な環境を用意したというよりは、胎児自身が自分の生命の安全と成長のために母体に働きかけ、母体を作り変えてきているということです。それほど子どもの生きようとする生命力というのは強いわけです。そして、誕生した時にやっぱり一番必要なのはお母さんなのでしょうね。それで赤ん坊は自分の一番身近な女性を、自分を生んでくれた女性を一人の女性から親というものに変わるように働きかけていきます。そうしてお母さんは絶えず見つめ、授乳し、話しかけ、あやし、おしめを取り替えてくれる。その相互作用から親は親であることを学び、子どもはやがて人間として生きていくための様々な学びを獲得していくのだと思います。

 ところが、残念なことに、今そこのとこでいろいろ難しいことが起きているようです。子育てに悩んでいるということ。要するに、いろいろなストレスを抱えて、子育てのこともよく分からない。そして、精神状態が不安定になっている。そういう人は、やはり密室の空間の中にいることが多いようですね。子育ての中で誰とも交われない人というのがいるようです。だから、そういうふうにどこにも出て来れないでいる人、そういう人が本当は一番問題なのかなあって思うんですけれど。
 やはり、母親をはじめ、家族の一挙手一投足、すべて目で見、耳で聞き、肌で感じているのが子どもなんでしょうね。そして、その一つひとつが擦り込みと言うんでしょうか、子どもの身体の中に、心の中に染み込んでいくのだと思います。

 ですから、子どもの知的な発達で一番大事なのはお母さんが子どもと添い寝などをして、言葉が分かるとかお話が出来る以前から話しかける、言葉が分かるようになったらやはり話しかける、そしてある程度お話が聞けるようになったらいろんなお話を聞かせてあげる、あるいは本読みをしてあげる、本当に子どもが安心して眠りに落ちるまで。ですから、やはり子育てにおけるゆとりが必要かなと思います。

 そこのところを順調にやってくれば問題ないと思いますが、やはり引っかかるのが3〜4歳の時でしょうね。母子手帳がなくなる時期がありますね、就学前まで。その時期にお母さん方は外部との繋がりが切れてしまいます。乳児の時は保健所とかいろいろな関わりがあるのですが、それが一端切れてしまいます。保育園なり、幼稚園なり、学校に行くまでの期間に空白の期間があります。そこの時期にいろいろな問題が生じるのではないかと思っています。
 だけど、実はこの時期が子どもにとっては一番大事なんですね。と言うのは、この時期は子どもが家庭の中だけの生活から自分の足で外の世界に出ていく時なんです。つまり、集団の遊びの世界の中に自分から入っていく時期に当たるわけです。そして、その中で友達と一緒に自分を作り上げていく期間ですね。だから、ここのところでうまくいけないとその後かなりやばいことになるかなという気がします。

 ですから、大事なことはその3〜4歳頃までにすんなりと外の子どもたちの集団の遊びの輪の中に入っていけるかどうか、そういう子どもに育てていっているかどうかということではないかなと思います。
 ところが、今いろいろ難しい条件がありますね。一例ですが、たとえば団地などでは、そこの広場でお母さん方が子どもを遊ばせています。ところが、そのお母さん方はみんな知り合いかというとそうじゃない。そこに何組か数人ずつのグループが出来ています。そして、こっちのグループとあっちのグループは付き合いがない。そして、グループ同士で牽制し合っている場合もあります。ちょうど今の女子学生のように。

 今、女子学生も学校のクラスの中でみんなと付き合っていないんですね。クラスの中で3〜4人ずつ、4〜5人ずつ、いくつかのグループが出来ていて、そのグループの中でしか付き合わない。ですから、その女の子が学校に行って遊ぶのは、どんなに大勢の生徒がいても、そのクラスの中のその数人の仲間だけなんですね。それは気が合うとか引きずり込まれたとか、いろいろあるようですが、たとえば、そのグループの中に強い子がいて、「あんたなんか嫌いよ」とか一言言われてそのグループからはじき出されると、その子は「まあ、クラスにいろいろいるからいいじゃないの」とはならない。その学校からはじき出されたという気持ちになってしまうんですね。それが女子学生に多いいじめによる不登校です。クラスの全員からいじめに合うのじゃないんですね。もちろん、中にはそういうのもありますけれど。ひどいのは以前に学校の先生も一緒になって色紙にいじめの寄せ書きをしたなんてのもありましたけれども、実際にはそういうのはあまりないですね。クラスのあるグループからはじき出されると、他のグループは受け入れてくれないですから、自分だけがクラスの中で孤立することになるんですね。そうすると行き場がなくなるんです。ですから、そのグループが良くなくても、たとえ不良グループであっても、その中に入れば、自分を押し殺して、そのメンバーの言うなりに行動するようになります。それが、「あの子が…」という子が万引きしたり、不良行動を起こしたりするもとにもなっていますね。

 何か話がずれましたけれども、それと同じように、今の若いお母さん方も、ここにも若いお母さんがいらっしゃるからああそうなのかなと思うかもしれませんけれども、全部と仲良く出来ないんですね。遊べないんですよ、大人が。数人のお母さん同士でしか付き合えないんですね。ですから、子ども自身もそういうグループでしか付き合わない。ですから、「公園デビュー」というのはお母さん方には随分決心のいることもあるらしいですね。必然的に子どもはその影響の中で育ってしまいます。他のグループの子どもたちとは遊べない子どもが育ってしまいます。そういうふうに、やはり子どもだけではどうしようもないなというのはありますね。その辺、お母さん方自身の問題として考えなければいけない問題があると思います。

 それと、子どもが遊べない環境の問題があります。ファミコンなどを毎日何時間もやっている子どもの話などを聞きますと、それは本当の遊びを奪われている子どもだと思いますね。特に町中の子どもたちは伸び伸びと遊ぶところがない。至る所に禁止区域や禁止事項がある。仕様がないからやっているんですよ。うちにもファミコンはありますけれども、週に2日、2時間程度しかやらないことになっています。そうすると、町中ではありませんから、子どもは外に行っていろんな子どもと遊びますし、ファミコンをやっていても友達から誘いがあれば行ってしまいますし、また自分から友達のところに行ってしまいます。いろんな遊びや遊び場があればそんなにファミコンに熱中することはないし、そればかりしたいという気持ちにはならないと思うんですけれども、他に何もないとそれが最大の慰みになるんですね。あれほど大人がしかけて、子どもの遊びを奪っているものは他にはないですよね。

■遊びと文化について

 遊びと文化ということについては、要するに遊びの中に文化の種子というものがあるということです。子どもの成長の種というのがあるということです。逆にに言えば、大人の様々な活動をつぶさに調べてみれば、そこに必ず遊びの要素だというのが見つかると思います。スポーツでもそうですし、たとえば学問でも、昔ソフィストというのがいましたね。今流に言えば、詭弁家と言うのでしょうか、言葉、論理の遊びですね。たとえば、オレとオマエは同じではない、ところでオレは人間だ、だからオマエは人間じゃないとか。また、ウサギはカメに追いつけない(アキレスは亀に追いつけない)とか、放った矢は壁に当たらない(飛ぶ矢は静止している)とかいうのがありますね。ところが、そういう詭弁が実は非常に学問の世界に貢献しているんですね。それから数学で虚数というのがありますが、これは世の中には目に見える形では存在しない数ですよね。いわばイマジネーション、遊びの部分ですよ。

 湯川秀樹さんが中間子理論というのを思いついた時、湯川さんは必死に数式や理論を考えていたわけじゃない、静かに瞑想に耽るようにしていた時だといいますね。その時ぱっと心に浮かんだことを後で理論づけていったわけです。よく、日本人でも偉大なことを考えた人というのは風呂の中で思いついたという話がありますね。そういう時は脳内にα波があふれているというのか、心が遊んでいる。そういう時に何か素晴らしいものが生まれるということがありますね。

 そういうふうに遊びと文化というのは非常に結びついていると思いますが、現代社会の中で遊びの価値というのが奇妙な形でねじれています。みんな今誰もが遊んでいるのではないかと考えるかもしれませんが、今まで述べてきたような意味での遊びというのはどこか色褪せてしまっているのではないかと思います。

 この間テレビを見ていましたら、変なお笑いの番組なんですが、その中で仲間の金がなくなったという設定であたかもそれが今起きているように進行するんです。それで今まで2回も金をくすねているからということで、ある一人の人を追及して吐かせるわけです。そのシーンの中で「お前結婚して子どもがいるだろう。写真を見せろ」と言って、その人のポケットから財布を取り出し、そこにあった子どもと映っている本物の家族の写真をテレビで見せるわけです。そして、芸人達は男に「お前は泥棒だ」と言い、その写真の子を指して「この子は泥棒の子です」と言うわけです。そこまでやっちゃうんですね。つまり、現実にその人を笑い者にする形で、しかもその子が実際に本当の泥棒の子であるかのように映像で扱われるわけです。
 これは確かにお笑いであり、一種の遊びではあるんですが、どこか退廃している。本来の命を躍動させる遊びの姿というのがどこかに飛んでいってしまっているわけです。こういう遊びがあたかも普通の遊びであるかのように至る所に氾濫しています。

 そういうふうに現代の社会の中からどんどん本来の遊びというのが消えていっています。本当の価値というのが省みられなくなっていっている。そして、こういう学歴社会になりますと、大人がよってたかって子どもから遊びそのものを奪ってしまう。そんな状況に子どもが置かれています。ですから、なおさら子どもの遊びというものを確保してやらなければならない。ある教育者実践者が子どもには1日最低2時間は遊ばせなさいと言っていました。

 遊ばせているとその分学校の勉強の方は幾分おろそかになるかなということも現在の日本ではありますが、そういう目先の学力だけでなく、もっと広く考えて、最終的な目標というのが社会に出てどれだけ自分の力を存分に発揮して活躍できるか、生き生きとみんなと調和して生きていけるかというところにあると考えれば、もちろん学力というものは大事ですけれども、それ以前の自由に発想でき行動できて、自発的に他者と関わっていけて、人間関係をうまく調整して、いろいろなことで生きていける力というのが大事なのではないかなと思います。そのためにも、子どもたちから遊びを奪ってはいけない、遊びを子どもたちに取り戻してやらなければいけないと思います。

■学校教育と遊び

 最後に、学校教育との関わりについて考えたいと思います。確かに学校は勉強をするところなんですが、そろそろ変わってきて、遊びというものをもうちょっと積極的に評価することがあってもいいんじゃないかなと思っています。

 ついこの間、NHKの教育テレビで佐藤学さんが、親が学校に参加してそういう中で学校を変えていく試みというものをやっていましたけれども、そんなのが一つの方法かなと思います。親が学校に参加して共に関わっていく中で、地域のいろいろなものを取り上げて研究したり、興味のあるものを調べてみたりとか、そういうような学びというのがあって、今までのように単に先生の言ったことを書き取る、教科書を読んで内容を理解する、ペーパーの問題を解いて確かめる、そういう従来の学校教育の方法だけではもう限界があるというのは非常に感じますね。

 昔は学校というのは地域の文化の中心であり、先生は尊敬され、特に私が育った昭和30年代の田舎などでは何かあれば学校の教室や体育館で地域の催し物を開くとか集会を開くとか、先生にも参加してもらうとか、映画会を行うとか、そういうどこか牧歌的な地域との繋がりがあったんですけれども、今は昔話となりましたし、子どもが学校外で身に付ける知識や見聞が非常に多くなりました。ですから、学校の中で朝の8時頃から午後の2〜3時頃までずっと閉じ込められて一方通行の受け身の授業でやっている学びの形というのはもう限界に来ている。その辺が変わっていかないと、本来子どもが持っている学ぶ喜び、遊ぶ喜びというものがいつか苦痛になってくる、避けたい気持ちになってくる、これはもう避けられない状況だと思います。ですから、これからの若いお母さん方には是非自分も学校の中に参加して遊ぶという姿勢があっていいんじゃないかなと思います。

 参加する授業の中で学校の先生が言っていましたね、「こうすることでお母さんに学んでもらうものだと思っていました。しかし、実は私たちが一番学ばせてもらっていることに気が付きました」と。だから、学校での学びを支援する意味でも、学校の従来の教育観を変えていく意味でも、子どもが主体的に関われる遊びを根底に置いた学びというのが必要なのではないかなという気がしました。ここの辺りはまたいつか時間があれば考えてみたいと思っています。

■遊びへの関わり方

 本当の最後に、子どもを持つ親として遊びにどういうふうに関わっていけばいいのだろうか、それについて簡単にお話ししたいと思います。

 遊びも大事だけれども、やはり勉強が大事と考えているのでしたら、小さいうちは遊ぶ楽しさの一環として学ばせていく方法がいいのではないかと思います。自発的な参加も学びも行動もそこで養われます。学校では新学力観になってからは「意欲・関心・態度」が評価項目にあがっています。学業以外の評価として通知票や内申書にこれがつきます。積極的に取り組んでいるか、意欲的に発言するかなどが評価の対象になります。だから、あまり勉強の意欲はないのにたくさん手を挙げればあの先生は評価してくれるとか、逆にそういう評価は嫌だからと分かっているのに全く手を挙げようとしない生徒がいたりとか、いろんな問題がそこにあるのですが、小さい頃から自然に遊びに関わらせていけば、いわゆる「生きる力」というようなものは十分培われた子どもになるのではないかという気がします。

 ただ遊びに対しては「指導」という形では関わらないで、親としては「一緒に遊ぼうね」「一緒に楽しもうね」という姿勢が一番大事だろうと思います。「遊びなさいア」ではいけませんね。やはり子どもが小さい頃は、親が一緒に喜んでくれることが大きいですね。一緒に笑ってくれること、一緒に楽しんでくれること、これほど子どもが遊びの中に入って行きやすいことはないですね。
 その場合、遊びの活動というのは総合的なもので、一つの遊びの中にいろんな要素が含まれていますから、もし遊びに関わらせるとしたら、はじめはそこに関わることが苦手であっても、継続してやることによって子どもはその状況を読みとってすんなりその遊びの中に入っていけるようになります。後は、その子の育ちとか関心によっていろいろな状況設定をしたり、テーマを設けたりとかしていけばいい。

 それから、マイナスの評価はしないことです。特に小さい時はそれが必要です。人間というのは人の欠点を見付けるのが非常に上手な生き物ですね。欠点というのは見付けやすいんです。ところが、なかなか人のことを誉めるというのは難しい。日本人は特に苦手です。愛している奥さんに対しても面と向かって誉めるということをまずしない。いろいろな場面でここでちょっと誉め過ぎかなあと思うくらいあおること、刺激するということは必要ではないかという気がします。
 ただ、こうすればこうだから、遊びの効用はこうだからと考えてやるというのではなくて、ただ自然に熱中できる遊びを設けていけば、子どもはちゃんと親の思惑を越えて育ちます。ですから、子どものやってみたい、行動したい、知ってみたいという内発的な気持ちをどう上手に遊びの中で育てていくかということが一番大事ではないでしょうか。

 実は、この遊びの発想は、単なる遊びの支援だけでなく、小学校低学年の生活科、あるいは総合的な学習の時間の中で活かされないかなと考えています。逆に言いますと、生活科にせよ、総合的な学習にせよ、あるいは他の教科にせよ、そこにこの遊びの発想が欠けているならば、その学びは成果の乏しい痩せたものになってしまうだろうと思っています。それらの教科が成果をあげるか否か、それはそこに豊かな遊びによる学びがあるかどうかにかかっているのではないかと思っています。今こそ、教育の現場においても真の意味での遊びの復権が必要なのだと思います。



遊びの教育学

1999/03
遊びの復権を目指して --- 人は遊びを通して人間になる

フリースクール・ぱいでぃあ代表 馬場 章

■子どもたちから遊びが消えていく

 先週は「子どもの学びと育ち」ということについてでしたが、今週は「遊びの教育学」というテーマでお話しさせていただきます。
 「教育学」なんて大それたことを言っていますが、簡単に言えば、遊びが子どもにとってどれほど人間教育学的な意味をもっているかということを少しお話しさせていただこうかなということです。

 私がなぜこんな「遊びの教育学」というものをお話しするかといいますと、誰もそんなこと言ってくれないんですね。確かに、これまでも子どもの遊びについてはいろいろな方が取り上げています。たとえば、それは子どもの遊びの形態であるとか子どもの遊び方の指導であるとか様々です。けれども、それはほとんどが子どもの学びとは別のところでのお話であったり、学びに付随するものとしての遊びの話であったりで、まともに教育の中心に据えた話というのはほとんどみかけないわけです。公教育に携わる先生の間でもまともに取り扱おうという人は少ないように思います。幼稚園や養護学校など公教育の周縁的な存在とみなされている所で取り上げられているのがほとんどだと思います。また一般の人の間でも旗色があまりよくありませんし、教育熱心な家庭では勉強に敵対するもののように受け取られたりもしています。
 どうも遊びというものが様々に語られている割にはあまり重要視されていないというか、その意義というのがよく理解されていないのではないかということを感じています。
 小さいお子さんがいる場合には、「遊ばせなきゃダメよ」とか「遊びは大事だよ」とか言いますが、やはり第二義的な価値しか考慮されていなくて、特に小学校に入学して学校の勉強が始まる時期になりますと、「遊んでばかりいないで勉強しなくてはダメよ」というような形で子どもに迫っていくようになりますね。

 今、いろんな形で子どもの遊びが壊れ始めている、子どもが遊ばなくなっている、遊べなくなっているように感じています。後でもお話しますが、学校の中でも遊びがどんどん消えていっています。遊具そのものが学校の中から消えつつあります。私が子どもの時からしますと今学校の中の遊具が非常に少ない。これは危険だとか危ないとか、いろんな理由で、中にはブランコさえない所もあります。鉄棒も外すとか、ユウドウエンボクなどはとうの昔になくなっています。それは子どもを危険から保護するという意味があるのでしょうが、どこかおかしい。もっと大きく考えると、日本の社会そのものが遊びの価値というものをどれだけ認識しているのかということになります。
 確かに、テレビのお笑い番組をはじめ擬似的な遊びというものはたくさんあります。遊びに似せたものは至る所にあります。しかし、本当に遊びと言えるものが社会の中から失われていっているのではないかという気がします。それは、非常に危ない傾向ではないかという気持ちがしております。

 そこで、子どもの遊びというものが子どもの育ちや子どもの教育においてどういう意味を持っているのかということを一度自分の中で組み立ててみて、それが皆さんにどう受け取っていただけるかなあと思ってお話しすることにしたわけです。
 
■人間は遊ぶ動物である

 遊びというものを考える時に、やはりその前にどうしても人間って何なのかということを考えます。前回の講座では、「学ぶ」ということを取り上げましたが、それとも関連してくるかなと思います。

 人間とは何かという時によく取り上げられるのに、朝には4本足で、昼には2本足、そして夕べには3本足のもの何だ、というのがありますが、人間存在というものの考察はギリシア・ローマ、その前の昔から人間自身が問うてきたものですね。その中で、人間というものについて言われているものに、一つはホモサピエンス、知的人間、人間というのは知性を持つ存在である、考える存在であるというのがありますね。それからホモファーベル、工作的人間、これは人間は物を作る存在であるということですね。人間は手を使い、物を作ることで文化・文明を発展させてきたという考え方がそこにあります。その他ホモエレクトス、人間は立って歩く動物だという見方もあります。ここで、それにもう一つ付け加えたいのはホモルーデンス、遊戯的人間、人間は遊ぶ存在であるという考え方です。

 社会の中には様々な人間の活動があります。学問、芸術、労働、戦いまで多様な人間の活動というのがありますが、その元になっているのは何なのだろうか。それを捉えなおしてみると、非常に面白い人間の考察ができると思います。それを考察した人の中に、オランダのヨハン・ホイジンガという人がいました。二〇世紀初頭の人です。第二次世界大戦前ですか、世界が危機的な状況に陥っていく中でこの人が長年の研究を発表したものですけれども、それが『ホモルーデンス』という著作です。私の遊びの話もおおむねこの人の考えを下地にしています。

 つまり、人間というのは本来的に遊ぶ動物なんだと。たとえば、スポーツというものにはルールというものがあります。また、たとえば仕事をする時にも、私たちはお金のために、家族のために、生活のために働いているわけですが、果たしてそれだけだろうかと考えた時に、そこには単に金や地位や名誉ではない、働き甲斐、働く喜びというのがありますね。それは何に基づくのだろうか。それから、戦争というものがあって、昔から「やあやあ、遠からん者は音にも聞け…」というように非常に儀式化したものがありました。日本の甲冑や鎧などを見ても、あれがどれだけ実戦で役立つのかと言ったらちょっと疑問ですね。あれは一種のデモンストレーション、見せです、誇示するものですね。また、戦争は戦い・殺し合いには違いないですが そこにもやはり暗黙の了解事項、ルールのようなものがあります。
 そういうふうに、我々人間の生活の中のいろんな所に遊びの要素というのはあるのじゃないかという感じがしています。そういうことを踏まえて考えてみたいと思います。

■遊びとは何か

 では、遊びとは一体何なのだろうかと言いますと、遊びというのは強制されてやるのとは全く質を異にしています。要するに、自分から進んで積極的にそこに参加して、ある一定の時間と空間を共有することで共にその喜びを享受するものですね。それが遊びというものの一つの定義です。そこでは一人ひとりが自分の主人公す。

 「遊び」という言葉が辞書でどう出ているか見てみますと、フランスの辞書(Petit Larouss)では次のように出ています。「それがもたらす喜びの他にはどんな目的も持たない、熱中している意識における、純粋に無償の身体的精神的な活動」とあります。要するに、遊ぶそのことが目的であり、それによって得られる喜びを得ることがその遊びの中心的な意味なんですね。これは日本の『広辞苑』を引いてもだいたい同じようなことが出てきます。「意義や目的にかかわりなく興のおもむくままに行動すること」とあります。そういうものとして遊びというものがあります。

 そして、この「遊び」と「学び」というものがどういうふうに関わってくるかといいますと、日本の学校教育の中では、遊びと学びというものは対立するか、あるいは学びの一部に補完的なものとして組み込まれているものとして考えられています。だから、学校教育の中では遊びは教科としては入っていませんね。遊びの教科というのはないんです。遊びは勉強が終わった後の休み時間に行うものか、あるいは課外的な活動として行うものになっています。
 ところが、ここで私が言いたいのは、最初に人間的な身体的精神的な活動して遊びがあって、特に小さな子どもにあっては学びは遊びと未分化の状態にある、そして、学びというものも遊びの領域の中に含まれるものとして考えるわけです。その場合、この学びというのは遊びの中の知的な活動を中心とするものと考えてもいいと思います。本来、遊びと学びとの関係はそういうものとしてあるのではないかと考えています。
 そこの捉え方の違いによって、たとえば子どもの成長や育成にどのように大人が関わっていけばいいのかということが全然違ってくるのではないかと思います。

■人は二度生まれる

 そういうことを考えますと、たとえば子どもがこの世に人として誕生して、やがて一人前の人間として育っていく過程というのは、これは私の仮説ですが、人間の誕生には第一の誕生と第二の誕生があるのではないかと考えるわけです。

 第一の誕生というのは、人間の生物学的な誕生、要するに卵子と精子が受精合体しやがてオギャーとこの世に誕生してくるまでの過程ですね。その過程の中で赤ん坊はこの世の中で人間として生きていける身体的な特徴というのはすべて備わって生まれてくる。たとえば、その過程には鰓(えら)が生え、水掻きができ、尻尾が生え、体毛が生えて、要するに地球に生命が誕生して以来の生命の進化の歴史を全て辿ってその最終段階の一人の人間の子どもとしてこの世に生まれてくる。これが第一の誕生、つまり人間の生物学的な誕生ですね。

 ただし、人間の子どもはそれだけでは人間にはなり得ない。そのためには第二の誕生を経なければならない、こう思うわけです。この第二の誕生というのは、人間というのは他の動物のようにただ生得的な本能に従って自然のあるがままに生きていくわけではなく、人間は社会をつくり、文化をつくり、その中で適応して生きていくわけです。ですから、その中で人間らしく生きていくものを身につけていかない限りその子どもは人間として生きていけない。

 かつて一九二〇年頃、インドでオオカミに育てられた二人の子どもが発見されたことがあります。その子どもたちは四つ足で歩き、オオカミと同じように行動し、オオカミのような感情を持ち、死ぬまで人間としての豊かな感情や言葉をほとんど身に付けることがなかったと言われています。その子たちは人間的なものを身に付ける時期にオオカミに育てられオオカミとして育ってしまったわけです。
 つまり、たとえ人間の子として生まれてもそれだけでは人間にはならない。人間の皮をかぶり、姿や形は人間であるけれども中身は野獣であるということにもなる。そう考えると、人間として生まれた子どもがやがて知・情・意を備えた一個の人間として社会の中で生きていける資質を身につける最も基本的で最も原初的な活動がこの遊びというものなのではないか。人間的な環境という条件が充たされていれば、人間の子どもはそういう活動を行えるように、そういう能力を生得的な形で身につけてこの世に生まれてくるのではないか。そして、それは子どもの遊びという活動を通して行われるのではないか、ということです。

 ただし、この遊びは人間だけが行う活動ではないですね。他の動物にも遊びではないかというものが認められます。たとえば、丹頂鶴の舞いなんていうのは優雅なものですね。また、狼や狐などの生態をテレビなどで見ますと、子どもが互いにじゃれ合ったりかみ合ったりしています。ライオンなどでもありますね。あれは何のためにやっているのでしょう。

 専門家の方はどう言うか分かりませんけれども、私の一つの見方ですけれども、人間以外の動物というのは絶対に仲間をかみ殺さないですよね。どんなにかみ合い争っても相手が腹を向けるとか、尻尾を巻くとか、目をそらして後ずさりするとか、参ったの合図をすれば絶対にもう攻撃しないですよね。そこに彼ら独自の了解事項、文化というのがあるのではないかと思います。人間だけですよね、アホなことをするのは。ところが、草食動物にせよ肉食動物にせよ、そういうことはやらない。それはおそらくあの遊びのような行動を通して自分たち同類のものは殺し合わないというルールを学んでいくのではないか。そんな気がするんです。

 そういうような遊びというものを人間の子どももやらなければ、本当の健全な人間にならないのではないか。先ほどのオオカミに育てられた子どものように、もしそこで子どもが人間としての遊びというものを欠落したまま育てば、おそらくどこか人間として欠陥のある欠落したところのある人間ができてくる可能性がないだろうか。そして、その遊びというものにはその後に様々なものを学んでいく上での最も基礎的なものが未分化のままカオスの状態のまま内包されているのではないか。

 そう考えれば、子どもの遊びということは、人間の成長にとって絶対不可欠な人間形成のための根幹をなす「道場」なのではないかという気がするわけです。そして、その中に子どもは自らを形成するために、自らを人間としてこの世界に誕生させるために喜びをもって関わり参加していくわけです。どんな人間にとっても自分が成長していく、学び完成していくというのは喜びなんですね。そういうように動物が遊びを通して獲得すると同じようなことを、人間の子どもも人間として自らを形成するためにやっているのではないか。この世に誕生するまでの過程において胎児が生命誕生の歴史をものすごいスピードで辿るように、遊びの活動を行う子どもの内部では、人類誕生から今に至る文明文化を築き上げた社会的人間というものの最も基本的資質の獲得を瞬く間に体現していっているのではないかと思うわけです。
 その中にはもちろん勉強するための「知」も含まれるけれども、それは人間の全体的な形成の活動からすればほんの一部、それも脳の活動の一部をより活性化させようとするものに過ぎない。もっと全体的な人間的な活動というものを考えた時に、人間の子として生まれた子どもが人間的な人間となる学びの場として、大きく言えば第二の人間誕生の活動として遊びというものがあるのではないか、そんな感じがしています。

 ただ、動物と人間の場合にはやはり違いがあって、動物の場合にはおそらく無意識のうちに、本能の次元というか生得的生物学的な次元で遊んでいて、それ以上の発展というのはないようです。つまり、遊びを通して成長することはあっても、自然に従属して生活するという基本的な条件は変わらないわけです。
 ところが、人間の場合には根幹に人間特有の遊びがあって、そのようなものから社会や文化を創り上げてきたわけです。そして、これは人間の遊びの場合の特徴ですが、どんな小さな子どもの場合でも、自分は遊んでいるんだ、今自分のやっていることはお遊びなんだ、本当のことではないんだという意識を持っているということです。どんなに遊びに熱中していても、この意識は必ずある。そしてその意識の中で遊んでいるわけです。ですから、そこから一歩退けば遊びの世界は即座に消えるし、その約束事を破れば自分は遊びの世界から締め出されるし、遊びそのものが壊れてしまうことも意識しているわけです。ですから、単に現実の必要に迫られて行動している次元とは全く違っていて、自らの意志で関わりながら、それに熱狂する自分を楽しんでいることを自覚しているわけです。ここに人としての遊びの特徴があり、文化的社会的発展への可能性が秘められていることになります。

■遊びの特徴

 遊びにはどんな特徴があるのかということは、ここではあまり意味がないかもしれませんけれども、一つの特徴として、ある一定の空間と時間の中で展開するということがあります。遊びというのは必ずある特定の場の中で展開します。原っぱとか幼稚園の遊び場とか、そういう一つの独特の場というのがある。そして、遊びには必ず始まりがあって終わりがあります。そういう独特の時間的世界の中で行われます。
 ただ、遊びというものは、「遊びなさい」と大人がいっても遊べるものではないんですね。それは不思議なほど子どもの中から出てくる自然な自発的な欲求であるわけです。そして、主体的に自らの喜びをもって参加していくんですね。

 また、遊びにはどんな小さなものでも、規則というもの、決まり、約束事というのがあります。参加する子どもがその決まりを承認することによって初めてその遊びの輪の中に、遊びの作り出す世界の中に入れるわけです。ですから、遊ぶためにはその約束事をみんなと同じ条件で受け入れるということが絶対必要なわけです。それで初めて遊びの一員となるわけです。
 それはどういう決まりかといいますと、その遊びの中で互いに承認されている決まりですね。もし、その中でこの決まりに従わない者がいると、遊びはシャボン玉がはじけるように壊れてしまう。ですから、遊びの中でこの約束事、決まりというのは絶対的な承認事項であるわけです。そして、その決まりの中では絶対に公正なわけです。勝つための不正は絶対あってはいけない。たとえば、トランプをしている時、一人ひとりがそれぞれに対等な立場に立って一つの決まり事を承認し合って参加する、それが遊びなんですね。

 しかしまた、それは絶対に本当のことではない。すべて嘘のことなんですね。ママゴトをしている時、子ども自身はその役割になりきっています。なりきる中で演じているんですね。泥のお団子をこねたりして一生懸命やるわけですけれども、それは生物学的次元での、あるいは現実生活での必要や利害の次元での、たとえばお腹がすいただの、何か欲しいだの、こうやれば儲かるだの、そういうものとは全く次元を異にした、ただそれを行うことによって喜びを得るためだけの無償の行為なわけです。そこで得られる楽しみや喜び、これだけが目的なんですね。ただ、それを行う子ども達の間では、その非日常的な時間と空間というものがしっかりとそれぞれの意識の中では共有されているわけなんですね。遊びとはそういうものです。

 ですから、人間の行動の中で、人の身体というのは普段は仕事するため、食べるため、あるいは殴るためとか、いろいろとあると思うのですが、そういう何かの効用のため、目的のために使います。ところが、遊びというものはその遊びの行為自体が目的なんです。だから、肉体にたとえればダンスみたいなものですか。ダンスは何のためにやるのか。正にその踊りそのものの素晴らしさを演じるためにやるんですね。指の先の形から、体のひねり具合、腰の使い方、そういう一挙手一投足がただすべて踊り、ダンスというものに捧げられる。何かその行為以外の目的を目指しているわけではありませんね。遊びもそういうものです。まさにその行為自体を演じる、それ自身が目的です。
 そういう行為を行うこと自体が、子どもにとっては最高の喜びなんです。その喜びを得るためには、子どもはつらい思いをしてでも必死に頑張ります。今ちょうど雪が消えましたけれども、「ちょっとそこの雪かきをしてちょうだい」と仕事を頼むと「えーっ、冷たいよ」と言います。ところが、遊ぶ子どもはそんなことは厭いません。手を真っ赤にして、手をかじかませても一生懸命雪を握ろうとします。そういうものです。ですから、遊びの喜びを得るためには多少の苦しいこと、辛いことにも耐えて頑張るんですね。そして、一つ事に気持ちを集中させるんです。勝負事をやるのでも、他の遊びでも子どもはものすごい集中力を発揮します。そして、お互いの仲間との緊張、集中力、そして喜びというのを共有するんです。それが遊びというものですね。まあ、難しく言えばそうなります。当の子どもは全然そんなこといちいち考えながら行動しているわけではないかもしれませんが。

 ところが、私たち大人が遊びというものを考える時に、子どものような現実に何をもたらすわけではない無償の行為というものをなかなか納得できないんですね。大人の場合には、子どものように純粋な形で遊ぶということはほとんど出来なくなっています。何をするにも、そこに現実的な代償を期待してしまうんです。パチンコ一つにしても、子どものようにそれをする楽しみというものはあるでしょうが、やはり利害が絡んでいます。スポーツでもそうです。そこに何か遊び以外の要素が大きく入り込んでいます。プロのスポーツになりますと特にそうですね。純粋に無償の行為として遊ぶということが難しくなっています。それだけ、大人の心の中から純粋な遊びというものが消えていっているのだろうなと思います。

 ただ、先ほども言いましたが、ただつまらない仕事を二六時中やっているお父さんはだんだん草臥れてきます。職場の中でも自分に働く意義を見いだせない仕事を続けている人は心が死んできますね。だから、大人の中にも、単にお金だけではない別の喜びを求めるものが、体の奥底に絶えず生き続けているいるんだと思います。

■遊びの効用

 遊びの効用というものについては、いろいろな方々が述べていることでもありますから多くは触れませんので、資料を見ておいてください。簡単に触れますと、一つは運動することでどういう効用があるか。特に指の運動、手の運動の場合ですね。何か物を作る、道具を使って物や自然に働きかける。小さな物はハサミから大きなものはマサカリみたいなものまで。

 私は田舎の家にいた頃は薪割りをしていました。これは遊びではなくて日課でしたけれども、やはり面白かったですね。それから、ナイフで丸太を削って木の独楽も作りました。誰に命令されるわけでもない、自分の楽しみのために指に血肉刺(ちまめ)を作ったりしながらやっていたんですね。そのことで言えば、そこに物を作る喜びとか、何かに働きかける、さらに言えば労働する喜びまで含まれています。

 それから、遊びの中で注目しておきたいのは、集団社会性の感覚の習得ということです。もちろん単独の遊びというのはありますが、遊びは集団の中で行われることが多いと思います。昔私が子どもの時は、鞍馬天狗とか赤胴鈴之助とか、ひょっこりひょうたん島はちょっと違うかな、いろいろチャンバラの物真似遊びがありました。要するに、切った、張った、殺した、そういうような遊びですね。泥棒ごっこ、ギャングごっこ、チャンバラごっこなど、悪役が必ず出てくるんですが、「死ねっ」と言ってばっさり斬りつけるとか、切られて「うーっ」と言って倒れるとか、殺し合いをする。遊びの中で殺人の疑似体験をする、これは非常に大事なことなんですね。そういうような世界を虚構の中で体験し学ぶということは非常に大きな意味を持っていると思います。そういう体験を経ながら、社会的にバランスのとれた人格が形成されていくのではないかなと思います。その中で集団のルールも学びます。必死に頑張る忍耐力も身につけます。ただ、子どもの集団ですから、いろんな対立も生まれますし喧嘩もします。行き違いから殴り合いも時にはあるでしょう。その中で悔しいことも学ぶし耐えなきゃいけないことも学びます。そして、じゃあどうしたらうまくやれるかという知恵も学びます。いろいろな人間観察も出来ます。「あの兄ちゃんは怖いから」とか「あの子はやさしいから」とか、人間の心理も読めるようになります。ゴマのすり方まで覚えてしまいます。これを一つひとつ学校の中で教えようとしたら大変なことですよ。それを子ども自身が遊びの中で、遊びを通していろいろな子どもと関わる中でちゃんと身につけていきますよね。不思議なものですね。

 そういう中から、イマジネーション、いろいろなことを想像する力も身につけていきます。それは、やがては自分が何か独創的なものを考えていく力にも育っていきます。何か偉大な発明とか、素晴らしい仕事を成し遂げた人というのは、子ども時代に型にはまらないというか、型からはずれているというか、夢見る少年であったりとかが非常に多いですね。その現実の遊びの中から想像力を働かせている。大人からすれば、「この子どこかおかしいのではないか」と思うほど何かに食らいついて考えたり夢想していたりします。そういうようなものを身につける子もいます。ですから、当然そういう中で知的な想像力や創造力というものも養われていきます。子どもというのは、遊びの中に没頭することで、誰に命令されることもなく自分というものを作り上げていっているのだと思います。

 また、そういう物を作ったり物を対象とする遊びなどを通して、どうすればどうなるか、どういうふうに組み合わせれば一番いいかとか、数学算数的な図形認識能力とか、計算能力とか、造形能力とかも養われていくと思います。
 そしてまた、自治の能力というもの、自分で律して自分で行動していく、また自分で行動してぶつかっていくことでそこから体験的に学んでいく、そういうものも言われなくても身につけていきます。

 それから、もう一つ大きなものとしては、癒しの効果というものです。今、遊べない子どもというのがいますね。以前子どもたちと上野動物園の見学会に行ったことがあります。表だけでなくヘビなどがしまってあるところとか裏の方のいろんな所まで見せてもらいました。とにかく狭いですね。我々見る方としては楽しいですけれども、閉じこめられている動物にとってはすごく可哀想なことだと思いますね。生まれ育った自然から切り離されて、檻の中で生活しています。床も土ではなくコンクリートです。だから、自然の中でのようにはつらつと活動はしていませんね。動いている動物はどうかと言うと、常動行為と言うのでしょうか、同じパターンの行動を何回も繰り返しています。行ってはまた戻ってきたりして。

 これは人間の社会だったらどこで見られると思いますか?人間の社会の中にもあるんですね。特に精神病院の閉鎖病棟の中ですね。心に病をもって隔離された人たちがそういう行動をしています。本当は可哀想なんですね。精神的な病を持った人こそ本当はもっと開放されたところで、自然に触れるところで暮らすのが癒しには一番いいのではないかと思うんですが。残念ながらそういう人は人目に付かないように隠してしまう発想になっています。もちろん、何を考えているか分からない人が自分の周りをうろついていたら怖いということはありますが、何かもっと違う方法はないのかなあという気はしますね。

 自然の中で暮らしていた動物がコンクリートの床の檻の中に入れられると胃潰瘍になったりストレスをためる場合が多いようです。そして、毛が抜け落ちたりする。その動物を解放して土のあるところに出してやりますと、動物は土の上で体を転げ回したり、土を口の中に頬張ったりして喜ぶそうです。ですから、人間の場合も、集団の中に開放されて遊ぶということは、一つには虐められたり苦しめられたりする場面もあるかもしれないですが、本当は心の安らぎになり癒しになるということが非常に多いんですね。

 たとえば、肉体労働をしたりスポーツをして筋肉を使って疲れるというのは、普通は寝て休めば、翌朝には、極度の疲労を除いては解消されるものです。ところが、環境や状況によってじわじわと精神的に溜め込んだストレスというのはなかなか解消されない。そういう時には、自然に触れて心を癒すとか、あるいは集団の中でだべって癒されるというのがあります。
 ある施設では処罰として独房に閉じ込めるというのがあるようですが、隔離して光も音も全てを遮断して閉じ込めると人は3日と持たないと言いますね。気が狂うそうです。ですから、人と人との交わりというのは一方ではとても煩わしいということもありますが、遊びとしてただそこに喜びとして仲間として関わっていくということが子どもにとってどれほど癒しになっているかというのがあると思います。

 で、最後に知力ということですが、やはり子どもは遊びを通して学んでいくという部分が多いと思います。特に就学年齢前の子どもにとっては遊びというのは最大の学びです。学問以前の、文字や計算力を身につける以前の土台づくり、土壌づくりというのが遊びという行為の中で行われるのじゃないだろうか。

 もちろん、人間には親の形質遺伝というのもあります。親からいろいろなものを受け継ぎます。そして、それぞれの家庭によって環境も違います。核家族のところもあれば3世代同居のお家もあります。両親とも働いているお家もあればお母さんがお家にいる家族もあります。そういうふうにいろいろな形で子どもは環境などに条件付けられているわけですが、ただ人間というのはそのような条件に甘んじ従属しているだけの存在ではない。その条件を飛び越えそれを変えていく能力を本来的に持っているわけですね。これがあったから人間は自然に屈することなく、こういう社会を作り上げてきたわけですね。

 その基本的な能力というのはやはり子どもの時に遊びを通して培われるのじゃないだろうか。ただその本能に従うのではなくて、その環境に働きかけて自らをそこに適応させると同時にそれを乗り越え作り変えていく、自分を絶えず変容させていく、そういう力を持っているんだと思いますね。

■遊びを疎外する環境

 しかし、今非常に難しい問題が起きています。非行の問題があります。集団の中に溶け込めない。それから、自尊感情の欠如というのが非常に多いですね。自分自身を肯定できないということです。これは、やはり今の教育制度が責任を負っている部分が非常に大きいと思います。それから、心身の不調があるということ。そういうように、今いろいろな子どもの世界の中で起きています。ところが、それを子どもの時代に解決できなかった人が20歳を過ぎて、大人になっても引きずっている場合があります。ただ、大人になれば子どもの時の問題は解決するというわけじゃないんですね。そういうのが今すごく出てきています。発達課題というのか、子どもの時にやるべきことをやれなかった子どもというのが後々までその負債を抱えて生きなければならない。そういうことにもなります。そのことで、大きくなった子どもだけではなくその親自身も一緒に苦しんでいる場合があります。そういうことも含めて、やはり今乳幼児期の育ちというのが問題になっているのだと思います。

 子どもは生まれた時から自分が成長するために何かを求めていますね。これは、実は生まれる前からそうです。子どもは生命が宿った時から母親に働きかけています。お母さんのお乳が張り、腰回りが太くなり、皮下脂肪が付いてきます。それは胎児のために母親が快適な環境を用意したというよりは、胎児自身が自分の生命の安全と成長のために母体に働きかけ、母体を作り変えてきているということです。それほど子どもの生きようとする生命力というのは強いわけです。そして、誕生した時にやっぱり一番必要なのはお母さんなのでしょうね。それで赤ん坊は自分の一番身近な女性を、自分を生んでくれた女性を一人の女性から親というものに変わるように働きかけていきます。そうしてお母さんは絶えず見つめ、授乳し、話しかけ、あやし、おしめを取り替えてくれる。その相互作用から親は親であることを学び、子どもはやがて人間として生きていくための様々な学びを獲得していくのだと思います。

 ところが、残念なことに、今そこのとこでいろいろ難しいことが起きているようです。子育てに悩んでいるということ。要するに、いろいろなストレスを抱えて、子育てのこともよく分からない。そして、精神状態が不安定になっている。そういう人は、やはり密室の空間の中にいることが多いようですね。子育ての中で誰とも交われない人というのがいるようです。だから、そういうふうにどこにも出て来れないでいる人、そういう人が本当は一番問題なのかなあって思うんですけれど。
 やはり、母親をはじめ、家族の一挙手一投足、すべて目で見、耳で聞き、肌で感じているのが子どもなんでしょうね。そして、その一つひとつが擦り込みと言うんでしょうか、子どもの身体の中に、心の中に染み込んでいくのだと思います。

 ですから、子どもの知的な発達で一番大事なのはお母さんが子どもと添い寝などをして、言葉が分かるとかお話が出来る以前から話しかける、言葉が分かるようになったらやはり話しかける、そしてある程度お話が聞けるようになったらいろんなお話を聞かせてあげる、あるいは本読みをしてあげる、本当に子どもが安心して眠りに落ちるまで。ですから、やはり子育てにおけるゆとりが必要かなと思います。

 そこのところを順調にやってくれば問題ないと思いますが、やはり引っかかるのが3〜4歳の時でしょうね。母子手帳がなくなる時期がありますね、就学前まで。その時期にお母さん方は外部との繋がりが切れてしまいます。乳児の時は保健所とかいろいろな関わりがあるのですが、それが一端切れてしまいます。保育園なり、幼稚園なり、学校に行くまでの期間に空白の期間があります。そこの時期にいろいろな問題が生じるのではないかと思っています。
 だけど、実はこの時期が子どもにとっては一番大事なんですね。と言うのは、この時期は子どもが家庭の中だけの生活から自分の足で外の世界に出ていく時なんです。つまり、集団の遊びの世界の中に自分から入っていく時期に当たるわけです。そして、その中で友達と一緒に自分を作り上げていく期間ですね。だから、ここのところでうまくいけないとその後かなりやばいことになるかなという気がします。

 ですから、大事なことはその3〜4歳頃までにすんなりと外の子どもたちの集団の遊びの輪の中に入っていけるかどうか、そういう子どもに育てていっているかどうかということではないかなと思います。
 ところが、今いろいろ難しい条件がありますね。一例ですが、たとえば団地などでは、そこの広場でお母さん方が子どもを遊ばせています。ところが、そのお母さん方はみんな知り合いかというとそうじゃない。そこに何組か数人ずつのグループが出来ています。そして、こっちのグループとあっちのグループは付き合いがない。そして、グループ同士で牽制し合っている場合もあります。ちょうど今の女子学生のように。

 今、女子学生も学校のクラスの中でみんなと付き合っていないんですね。クラスの中で3〜4人ずつ、4〜5人ずつ、いくつかのグループが出来ていて、そのグループの中でしか付き合わない。ですから、その女の子が学校に行って遊ぶのは、どんなに大勢の生徒がいても、そのクラスの中のその数人の仲間だけなんですね。それは気が合うとか引きずり込まれたとか、いろいろあるようですが、たとえば、そのグループの中に強い子がいて、「あんたなんか嫌いよ」とか一言言われてそのグループからはじき出されると、その子は「まあ、クラスにいろいろいるからいいじゃないの」とはならない。その学校からはじき出されたという気持ちになってしまうんですね。それが女子学生に多いいじめによる不登校です。クラスの全員からいじめに合うのじゃないんですね。もちろん、中にはそういうのもありますけれど。ひどいのは以前に学校の先生も一緒になって色紙にいじめの寄せ書きをしたなんてのもありましたけれども、実際にはそういうのはあまりないですね。クラスのあるグループからはじき出されると、他のグループは受け入れてくれないですから、自分だけがクラスの中で孤立することになるんですね。そうすると行き場がなくなるんです。ですから、そのグループが良くなくても、たとえ不良グループであっても、その中に入れば、自分を押し殺して、そのメンバーの言うなりに行動するようになります。それが、「あの子が…」という子が万引きしたり、不良行動を起こしたりするもとにもなっていますね。

 何か話がずれましたけれども、それと同じように、今の若いお母さん方も、ここにも若いお母さんがいらっしゃるからああそうなのかなと思うかもしれませんけれども、全部と仲良く出来ないんですね。遊べないんですよ、大人が。数人のお母さん同士でしか付き合えないんですね。ですから、子ども自身もそういうグループでしか付き合わない。ですから、「公園デビュー」というのはお母さん方には随分決心のいることもあるらしいですね。必然的に子どもはその影響の中で育ってしまいます。他のグループの子どもたちとは遊べない子どもが育ってしまいます。そういうふうに、やはり子どもだけではどうしようもないなというのはありますね。その辺、お母さん方自身の問題として考えなければいけない問題があると思います。

 それと、子どもが遊べない環境の問題があります。ファミコンなどを毎日何時間もやっている子どもの話などを聞きますと、それは本当の遊びを奪われている子どもだと思いますね。特に町中の子どもたちは伸び伸びと遊ぶところがない。至る所に禁止区域や禁止事項がある。仕様がないからやっているんですよ。うちにもファミコンはありますけれども、週に2日、2時間程度しかやらないことになっています。そうすると、町中ではありませんから、子どもは外に行っていろんな子どもと遊びますし、ファミコンをやっていても友達から誘いがあれば行ってしまいますし、また自分から友達のところに行ってしまいます。いろんな遊びや遊び場があればそんなにファミコンに熱中することはないし、そればかりしたいという気持ちにはならないと思うんですけれども、他に何もないとそれが最大の慰みになるんですね。あれほど大人がしかけて、子どもの遊びを奪っているものは他にはないですよね。

■遊びと文化について

 遊びと文化ということについては、要するに遊びの中に文化の種子というものがあるということです。子どもの成長の種というのがあるということです。逆にに言えば、大人の様々な活動をつぶさに調べてみれば、そこに必ず遊びの要素だというのが見つかると思います。スポーツでもそうですし、たとえば学問でも、昔ソフィストというのがいましたね。今流に言えば、詭弁家と言うのでしょうか、言葉、論理の遊びですね。たとえば、オレとオマエは同じではない、ところでオレは人間だ、だからオマエは人間じゃないとか。また、ウサギはカメに追いつけない(アキレスは亀に追いつけない)とか、放った矢は壁に当たらない(飛ぶ矢は静止している)とかいうのがありますね。ところが、そういう詭弁が実は非常に学問の世界に貢献しているんですね。それから数学で虚数というのがありますが、これは世の中には目に見える形では存在しない数ですよね。いわばイマジネーション、遊びの部分ですよ。

 湯川秀樹さんが中間子理論というのを思いついた時、湯川さんは必死に数式や理論を考えていたわけじゃない、静かに瞑想に耽るようにしていた時だといいますね。その時ぱっと心に浮かんだことを後で理論づけていったわけです。よく、日本人でも偉大なことを考えた人というのは風呂の中で思いついたという話がありますね。そういう時は脳内にα波があふれているというのか、心が遊んでいる。そういう時に何か素晴らしいものが生まれるということがありますね。

 そういうふうに遊びと文化というのは非常に結びついていると思いますが、現代社会の中で遊びの価値というのが奇妙な形でねじれています。みんな今誰もが遊んでいるのではないかと考えるかもしれませんが、今まで述べてきたような意味での遊びというのはどこか色褪せてしまっているのではないかと思います。

 この間テレビを見ていましたら、変なお笑いの番組なんですが、その中で仲間の金がなくなったという設定であたかもそれが今起きているように進行するんです。それで今まで2回も金をくすねているからということで、ある一人の人を追及して吐かせるわけです。そのシーンの中で「お前結婚して子どもがいるだろう。写真を見せろ」と言って、その人のポケットから財布を取り出し、そこにあった子どもと映っている本物の家族の写真をテレビで見せるわけです。そして、芸人達は男に「お前は泥棒だ」と言い、その写真の子を指して「この子は泥棒の子です」と言うわけです。そこまでやっちゃうんですね。つまり、現実にその人を笑い者にする形で、しかもその子が実際に本当の泥棒の子であるかのように映像で扱われるわけです。
 これは確かにお笑いであり、一種の遊びではあるんですが、どこか退廃している。本来の命を躍動させる遊びの姿というのがどこかに飛んでいってしまっているわけです。こういう遊びがあたかも普通の遊びであるかのように至る所に氾濫しています。

 そういうふうに現代の社会の中からどんどん本来の遊びというのが消えていっています。本当の価値というのが省みられなくなっていっている。そして、こういう学歴社会になりますと、大人がよってたかって子どもから遊びそのものを奪ってしまう。そんな状況に子どもが置かれています。ですから、なおさら子どもの遊びというものを確保してやらなければならない。ある教育者実践者が子どもには1日最低2時間は遊ばせなさいと言っていました。

 遊ばせているとその分学校の勉強の方は幾分おろそかになるかなということも現在の日本ではありますが、そういう目先の学力だけでなく、もっと広く考えて、最終的な目標というのが社会に出てどれだけ自分の力を存分に発揮して活躍できるか、生き生きとみんなと調和して生きていけるかというところにあると考えれば、もちろん学力というものは大事ですけれども、それ以前の自由に発想でき行動できて、自発的に他者と関わっていけて、人間関係をうまく調整して、いろいろなことで生きていける力というのが大事なのではないかなと思います。そのためにも、子どもたちから遊びを奪ってはいけない、遊びを子どもたちに取り戻してやらなければいけないと思います。

■学校教育と遊び

 最後に、学校教育との関わりについて考えたいと思います。確かに学校は勉強をするところなんですが、そろそろ変わってきて、遊びというものをもうちょっと積極的に評価することがあってもいいんじゃないかなと思っています。

 ついこの間、NHKの教育テレビで佐藤学さんが、親が学校に参加してそういう中で学校を変えていく試みというものをやっていましたけれども、そんなのが一つの方法かなと思います。親が学校に参加して共に関わっていく中で、地域のいろいろなものを取り上げて研究したり、興味のあるものを調べてみたりとか、そういうような学びというのがあって、今までのように単に先生の言ったことを書き取る、教科書を読んで内容を理解する、ペーパーの問題を解いて確かめる、そういう従来の学校教育の方法だけではもう限界があるというのは非常に感じますね。

 昔は学校というのは地域の文化の中心であり、先生は尊敬され、特に私が育った昭和30年代の田舎などでは何かあれば学校の教室や体育館で地域の催し物を開くとか集会を開くとか、先生にも参加してもらうとか、映画会を行うとか、そういうどこか牧歌的な地域との繋がりがあったんですけれども、今は昔話となりましたし、子どもが学校外で身に付ける知識や見聞が非常に多くなりました。ですから、学校の中で朝の8時頃から午後の2〜3時頃までずっと閉じ込められて一方通行の受け身の授業でやっている学びの形というのはもう限界に来ている。その辺が変わっていかないと、本来子どもが持っている学ぶ喜び、遊ぶ喜びというものがいつか苦痛になってくる、避けたい気持ちになってくる、これはもう避けられない状況だと思います。ですから、これからの若いお母さん方には是非自分も学校の中に参加して遊ぶという姿勢があっていいんじゃないかなと思います。

 参加する授業の中で学校の先生が言っていましたね、「こうすることでお母さんに学んでもらうものだと思っていました。しかし、実は私たちが一番学ばせてもらっていることに気が付きました」と。だから、学校での学びを支援する意味でも、学校の従来の教育観を変えていく意味でも、子どもが主体的に関われる遊びを根底に置いた学びというのが必要なのではないかなという気がしました。ここの辺りはまたいつか時間があれば考えてみたいと思っています。

■遊びへの関わり方

 本当の最後に、子どもを持つ親として遊びにどういうふうに関わっていけばいいのだろうか、それについて簡単にお話ししたいと思います。

 遊びも大事だけれども、やはり勉強が大事と考えているのでしたら、小さいうちは遊ぶ楽しさの一環として学ばせていく方法がいいのではないかと思います。自発的な参加も学びも行動もそこで養われます。学校では新学力観になってからは「意欲・関心・態度」が評価項目にあがっています。学業以外の評価として通知票や内申書にこれがつきます。積極的に取り組んでいるか、意欲的に発言するかなどが評価の対象になります。だから、あまり勉強の意欲はないのにたくさん手を挙げればあの先生は評価してくれるとか、逆にそういう評価は嫌だからと分かっているのに全く手を挙げようとしない生徒がいたりとか、いろんな問題がそこにあるのですが、小さい頃から自然に遊びに関わらせていけば、いわゆる「生きる力」というようなものは十分培われた子どもになるのではないかという気がします。

 ただ遊びに対しては「指導」という形では関わらないで、親としては「一緒に遊ぼうね」「一緒に楽しもうね」という姿勢が一番大事だろうと思います。「遊びなさいア」ではいけませんね。やはり子どもが小さい頃は、親が一緒に喜んでくれることが大きいですね。一緒に笑ってくれること、一緒に楽しんでくれること、これほど子どもが遊びの中に入って行きやすいことはないですね。
 その場合、遊びの活動というのは総合的なもので、一つの遊びの中にいろんな要素が含まれていますから、もし遊びに関わらせるとしたら、はじめはそこに関わることが苦手であっても、継続してやることによって子どもはその状況を読みとってすんなりその遊びの中に入っていけるようになります。後は、その子の育ちとか関心によっていろいろな状況設定をしたり、テーマを設けたりとかしていけばいい。

 それから、マイナスの評価はしないことです。特に小さい時はそれが必要です。人間というのは人の欠点を見付けるのが非常に上手な生き物ですね。欠点というのは見付けやすいんです。ところが、なかなか人のことを誉めるというのは難しい。日本人は特に苦手です。愛している奥さんに対しても面と向かって誉めるということをまずしない。いろいろな場面でここでちょっと誉め過ぎかなあと思うくらいあおること、刺激するということは必要ではないかという気がします。
 ただ、こうすればこうだから、遊びの効用はこうだからと考えてやるというのではなくて、ただ自然に熱中できる遊びを設けていけば、子どもはちゃんと親の思惑を越えて育ちます。ですから、子どものやってみたい、行動したい、知ってみたいという内発的な気持ちをどう上手に遊びの中で育てていくかということが一番大事ではないでしょうか。

 実は、この遊びの発想は、単なる遊びの支援だけでなく、小学校低学年の生活科、あるいは総合的な学習の時間の中で活かされないかなと考えています。逆に言いますと、生活科にせよ、総合的な学習にせよ、あるいは他の教科にせよ、そこにこの遊びの発想が欠けているならば、その学びは成果の乏しい痩せたものになってしまうだろうと思っています。それらの教科が成果をあげるか否か、それはそこに豊かな遊びによる学びがあるかどうかにかかっているのではないかと思っています。今こそ、教育の現場においても真の意味での遊びの復権が必要なのだと思います。