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フリースクールの子どもたちへひと言


2005年04月25日 フリースクールの子どもたちへひと言……耳障りな存在として 

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□ フリースクールの子どもたちへひと言 ■……耳障りな存在として
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フリースクールに通ってくる日数が重なるにつれ、君たちに単に「よく来たね」と迎え入れるだけでなく、その自律の度合いに応じて、いろいろと耳障りなことを言うことも多くなる。しかし、とりわけ今日、そういう大人が君たちの周りにいるかいないかということは、とても大きな意味を持っている。

話は全く違うけれども、昨日テレビで新しく導入される高齢者の介護保険の番組をやっていた。いろんなところに何々センターだとかヘルパーさんの集まりとかが出来ている。老人介護という分野は日本では立ち遅れている。だから、みんなを施設に入れるわけにはいかないし、入れるのが必ずしもいいとは言えない。そこで、お家で介護する補助としてヘルパーさんを使う制度が進んでいる。その制度自体はいいんだけれども、それで何が起きたか、ということをNHKでやっていました。

一つは、その制度に乗っかることで、それまでは散歩したり、ベッドから下りていろいろ歩くことができたお年寄りが、すべて賄われるので動かなくてもよくなる、そしたら逆に体の機能が退化し衰えてしまう、動けなくなってしまう。そうい問題が起きている、と言っていました。だから、本来は自立を支援する、自分で何とかしたいという老人を助けるための制度であったものが、逆にそういう人たちから自立心を奪い動けなくしてしまう。そういう間違った使われ方もしていると言っていました。もちろん、NHKの番組だからといって、TVの報道をそのまま鵜呑みにするわけには行かないけれど。

これは、君たちの場合も同じだと思う。

中学ではほんのさわりの部分だけで、高校になったら本格的にやると思うけれども、中国に漢詩・漢文というのがあります。その中に孔子という人がいてね、こういうことを言っています。「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」。「あした」というのは朝ね、「ゆうべ」というのは夕方だよね。要するに、朝に、自分はどう生きたらいいか、どうすればいいか、ということの本当の答えを聞いたなら、私はもう夕方には死んでもこの身が惜しいとは思わない、というわけです。そのくらい、人から本当のことを聞くということは価値があることだと言っているわけです。しかし、誰でもが親身になって言ってくれるわけではないわけです。

また、彼はこういうことも言っています。これはフリースクールの学びにも通じることだけれども、「学びて思わざればすなわち暗く、思いて学ばざればすなわち危うし」と。どういうことか分かりますか。勉強しても自分で考えることがなければ聡明にはならない。逆に、自分で考えることがあっても何が正しいことかを学ばなければ、その考えは危険である。だから、学校で教わり、塾で教わるだけの勉強は本物ではない、と言っているんです。それだけのものを聞いたならば、それを自分の頭で考えなければいけない。その過程がなければ、学びは本物にはならないし、独り善がりなことを勝手に考えていても、それもまた本物にはならない。

たとえば、この世を支配している法則・摂理というものがあります。物理的な法則でも、数学的な法則でもいい。そういうことを全く無視して、独り善がりになって、何かをやろうとしても絶対うまく行かない。ニュートンがこう言った、アインシュタインがこう言った、ということをただ鵜呑みにしたって何にもならない。学ぶことと考えることがうまくかみ合って、初めてうまく行き、自分の独自性というのも生まれてくる。

今、日本の教育が行き詰まっていると言われるけれど、その文脈で考えれば、教えてもらってばかりいた人間が社会のトップに立ち、今どうしていいか分からないと言っている。自分で考えることをして来なかった人間や、勝手なことばかり考えてきた人間が日本を動かそうとしている。「だから、教育を根本から変えなければいけないんだ」と、文科省がようやく言い始めたんです。それが今の段階です。

ところがです。奇妙なことに、こういうフリースクールに来る子どもたちも学校に通っている子どもたちと同じことをしようとしている。そのやり方に傷ついて、そこから弾き出されながら、そのやり方を真似ようとしている。

たとえは良くないけれど、奴隷を例にして言えば、奴隷からの解放を求めて戦った連中は、今度は自分たちが自由になったら、「自由の使い方が分からない、何とかしてくれ!」「誰か俺にこうしろと命令してくれ!」と訴え、もう一度束縛されたがり、奴隷の身分になりたがろうとする。そういうアホなことも自由の獲得の長い歴史の中にはあったのです。まさにそれに似ている。

これは、自分の意識の問題。これに限らず、世の中にはいろんなことがあります。そういうことを一つひとつ学んでいくのも大きな勉強なんですよ。ただペーパーに書いてあることを頭に詰め込めばいいなんてのは、本当の学びではない。もうそんなことはコンピュータにやらせればいいんです。何を考えるか---それがこれから大事なことです。

学校を離れて、こういうフリースクールに来た君たちは、とても貴重な存在だと思う。というのは、みんなが「イエス、イエス」と言って疑わなかった学校の教室という空間の中で、「変だ、何かがおかしい」と思い、しかもただ一人で「ノー」と言うことの出来た貴重な存在ですよ、君たちは。みんなとは同じようには考えられない自分の独自性というものを強く意識する部分が、自分の中のどこかにあるんですよ。表現としては「そこが嫌だったから」「弾き出された」とか「身体が動かなくなった」とか、いろいろあるけれども、そこにはない、他の人には分からない異質なもの独自なものを意識し、持っていたということですよ。

それを自分で明確に意識したかどうかは分からないけれども、それは今後の課題かもしれないけれども、それを大事にしなさいよ。ところが、自分の独自性を否定して、周りに合わせようとして、そして少しでも合わすことが出来たらそれが良かったかのような錯覚を起こす。それはとんでもない間違い。そういう錯綜した気持ちが君たちの中にある。メールや携帯でのやり取りにしてもそう。何が自分のオリジナルなものなのかまだ分かっていないところがある。それを、フリースクールの中で、ゆっくりじっくり育てていけたら素敵だと思う。



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