「学びからの逃走」ということ

2002/12/06
「学びからの逃走」ということ

 「教育の階層化」が指摘され、「学力の低下」が叫ばれ、そして子どもたちの「学びからの逃走」が深刻な問題として論じられています。しかし、これらは多分に風聞的な形で語られているところがないわけでもありません。

 そこでそれを検証する必要もあってか、ある新聞の記者さんが「学びからの逃走」について聞きたいということで「ぱいでぃあ」を訪れたことがありました。できたら子どもたちの意見も聞きたいということでした。しかし、まだ子どもたちの了解もとっておらず、その時はまず私たちでお話しすることになりました。

 記者さんの思惑では、「学びからの逃走」は困ったことであり、さぞかしフリースクールというところにはそういう子どもたちが集まっているのだろうということがあったのだろうと思います。しかし、私たちが話したことは、「ぱいでぃあ」に通っている子どもたちの多くは、確かに学校から離れ、学校で勉強することを拒否した子どもたちではあるけれども、必ずしも学ぶことを嫌ってはおらず、ほとんどの子が自ら進んで勉強していること、勉強は嫌いかと訊ねると嫌いだという子は少ないと答えたことなどを話しました。そして、「ある意味、今の学校では勉強したくないという反応は正常な反応かもしれない」という私の感想も話しました。

 記者さんの思惑から外れるそんな<とんちんかん>な返答をしたからでしょうか、「うーん、企画を見直さなきゃいけないかもしれません」と言っておられたのですが、その話題が取り上げられた記事を後で読みますと、やはり、「学びからの逃走」が問題あることとした既定の方針で記事が作られているようでした。私の話したようなことはどこにもありませんでした。(こういうことはよくあることです)

 しかし、「子どもたちは学びたがっている」という人たちの意見は、そこに多少の誇張があるとはしても、決して間違っているとは思いません。「ぱいでぃあ」の子どもたちを見てもそう思います。勉強を嫌がっているとしたら、学校で勉強することがいかにつまらなく嫌なものであるかという苦い体験を嫌というほど味わってきたからではないでしょうか。でも、それは「子どもたちは学びから逃走している」ということにはならないでしょう。いつの時代も子どもたちは学ぶことを本能的に求めているのに変わりはないように私には思えます。むしろ、学校がそういう子どもの思いを真正面から受けとめられなくなっていることの方が問題ではないかと私は思うのです。

 もはや、子どもたちは今までの学校教育のような形での学びを求めてはいない。それなのに、学校は依然として旧態依然の授業のやり方を変えようとはしていない。そこに最大の問題があるのではないか。そんな感じがしてなりません。ですから、もし子どもが求めている学びの方法・学びの形というものを用意するならば、子どもたちは進んで学ぼうとする意欲を取り戻すのではないかと私は思います。

 「遊学統合とフレネ教育法」−−これは「フリースクール・ぱいでぃあ」の基本理念です。これもそのような子どもの新しい学びの方法・学びの形の試みです。「遊学統合」というのは人にとって「学ぶことは遊ぶことと同様に楽しいこと」だということ、そして「フレネ教育法」とは「子どもを主体とする学びの方法」です。フリースクールと言えば、一般には学校にも行かず、勉強もしないで、毎日気ままに過ごしているというイメージを抱くかもしれません。しかし、「ぱいでぃあ」の理念が少しは理解されてきたこともあるのでしょうか、「ぱいでぃあ」に集う子どもたちは、学力の高低や今までは嫌いとか苦手とかであっても、みなそれぞれのやり方で熱心に取り組んでいます。その結果、ほとんどの子どもたちから学ぶことは嫌ではないという返答が戻ってくるようになっています。

 そういう意味も含めて、「子どもたちは学校での勉強は嫌だったかもしれないけれど、学びそのものから逃走しているわけではない」と思っています。学校教育の現場で「学びからの逃走」が話題にならなくなるのはいつのことでしょうか。ただ、これは単に技術論で片付く問題ではないことは確かなことです。
 


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