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よく“自分探し”という言い方がされる。あたかもここにいる自分は仮の姿であり、本当の自分はどこか遥か彼方にいると考えている人がいる。カールブッセの詩が“山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う…”と上田敏の訳詩集『海潮音』で紹介されたように、古来日本人は幸福というものについてそういう発想を持っていたようだ。 しかし、スマップの“世界でただ一つの花”の歌詞にもあるように、自分探しをしようとしまいと、個人というものは誰でももともとこの世で“only one”の存在なのだ。それをいみじくも証明したものにメーテルリンクの『青い鳥』という劇がある。“幸福”を求めて旅立った子どもたちは様々な彷徨の後に、何のことはない幸福というものは自分たちの足元にあることに気付くのである。つまりは、自分という存在を掛け替えのない固有の存在であると認識することがまず大事だということである。 そこでまず、フリースクールはどういう性格の存在なのか考えてみたい。というのは、学校教育が“公”の教育を行う場であるのに対して、フリースクールは“個”の教育を行う場である、という“誤解”が一般にまかり通っているからである。確かに、主として日本では、フリースクールは学校に行きたくない子や学校に行けなくなった子どもたちの受け皿となっている。そして、フリースクールの“フリー”とは何よりも学校教育という国家を背景とした擬似的な“公”教育からフリーになるということを意味している。だから、フリースクールとは子どもたちの生きる現実から、子どもたちの目線から教育を紡ぎ出していこうとする“個”の教育を尊重する教育機関であると言ってもいいかもしれない。 しかし、改めて言うまでもないことだが、“教育”というものは、それが学校という国家行政機関が行おうとフリースクールという民間の機関が行おうと、なべて“公”を実現するための活動なのである。それに国家のお墨付きがあるかどうかということは全く関係がない。しかし、その前に大事なことは、公教育であろうと私教育であろうと、その教育が“公”の営みであるためには、そのメンバーである生徒たち一人ひとりが“個”的な存在として明確な輪郭を持って存在していなければならないということである。たとえば、個々の楽器の音色が生きてこそシンフォニーは生きるし、個々の色彩が輝いてこそ花火は美しい。問題は、果たして今の学校教育で個を尊重する教育が可能かどうかということである。 繰り返しになるが、“教育の真の目的は何か”と問われたならば、それは“子どもたち一人ひとりが社会性を身に付けること”だと答える。これは何も公教育だけの話ではなく私どものようなフリースクールにおいても目指すべきところは同じである。もちろん、“学業”を身に付けることは学校/スクールという教育機関の大前提ではあるが、それと同等に、時にはそれ以上に、“個と集団”のあり方を心得ることは学校/スクールの必須条件なのである。 その意味において、新聞やテレビなどのマスコミに登場してくる校長が、“学校は勉強をするところであり、社会性を身に付けるところである”と言うことはまことに正しい認識であると思う。ところが、残念なことに現実には、そういうことを敢えてマスコミに向かって言わねばならないということは、その学校ではそれが実現できなかっただけでなく、事件を引き起こすまでになっていたということである。現実には多くの場合、それは言葉の綾であり、建前に過ぎないものになっている。 それは何故か。その一つは、教師は学校生活を終えた後にすぐに子どもたちの前に立つことが多く、他の職種に比べて自己研鑽を積む下積み期間が短く、また仕事の対象がいつも子どもたちであり、大人と仕事で渡り合うということはあまり多くない、その分社会性が身に付きにくい職業であるからということがある。社会性の問題だけを取り上げるならば、民間企業でもまれる人間の方がよほど豊富な社会体験をすることになる。一般の人間から見て、先生という人たちにどこか世間知らずの書生っぽい感じが拭えないのはそのためである。近年、教員の職業体験の必要性とか民間人校長の登用ということが盛んにもてはやされるなったのもそういう経緯からである。生徒たちはそういう教師たちに指導を受けながら学ぶわけだから、教科の指導には長けてはいても、勢い社会性が乏しい学校生活を送るようになることは止むを得ない。それに今まで学校は社会との間に塀を設け、社会の風が直接入り込まないようにすることを良しとしてきた。その結果として、子どもたちの社会性の乏しさが現在のような教育の危機を生み出した一つの要因ともなっていると考えられなくもないのだ。 結論を急ごう。端的に言えば、学校教育が擬似的な上からの“公”の尊重を子どもたちに要求するあまり、本来誰でもが有している掛け替えのない個をないがしろにしてきたのに対して、フリースクールは逆にもともとそれぞれの子どもたちが有している個性をそのまま認め、徐々に社会化を図るアプローチを行う方法をとっている。「個があっての公であり集団なのだ」という考えがそこにある。個が輝き、個々が響きひを発することによって集団もまた輝き、互いに響き合うのである。それがフリースクールの目指す教育である。アプリオリの善もなければ、アプリオリの“公”というものもない。はじめに具体的な生身の個々の子どもたちがいる。はじめに“個”ありきということである。それであってこそ、はじめて個も集団も生きるのである。
しかし、スマップの“世界でただ一つの花”の歌詞にもあるように、自分探しをしようとしまいと、個人というものは誰でももともとこの世で“only one”の存在なのだ。それをいみじくも証明したものにメーテルリンクの『青い鳥』という劇がある。“幸福”を求めて旅立った子どもたちは様々な彷徨の後に、何のことはない幸福というものは自分たちの足元にあることに気付くのである。つまりは、自分という存在を掛け替えのない固有の存在であると認識することがまず大事だということである。 そこでまず、フリースクールはどういう性格の存在なのか考えてみたい。というのは、学校教育が“公”の教育を行う場であるのに対して、フリースクールは“個”の教育を行う場である、という“誤解”が一般にまかり通っているからである。確かに、主として日本では、フリースクールは学校に行きたくない子や学校に行けなくなった子どもたちの受け皿となっている。そして、フリースクールの“フリー”とは何よりも学校教育という国家を背景とした擬似的な“公”教育からフリーになるということを意味している。だから、フリースクールとは子どもたちの生きる現実から、子どもたちの目線から教育を紡ぎ出していこうとする“個”の教育を尊重する教育機関であると言ってもいいかもしれない。 しかし、改めて言うまでもないことだが、“教育”というものは、それが学校という国家行政機関が行おうとフリースクールという民間の機関が行おうと、なべて“公”を実現するための活動なのである。それに国家のお墨付きがあるかどうかということは全く関係がない。しかし、その前に大事なことは、公教育であろうと私教育であろうと、その教育が“公”の営みであるためには、そのメンバーである生徒たち一人ひとりが“個”的な存在として明確な輪郭を持って存在していなければならないということである。たとえば、個々の楽器の音色が生きてこそシンフォニーは生きるし、個々の色彩が輝いてこそ花火は美しい。問題は、果たして今の学校教育で個を尊重する教育が可能かどうかということである。 繰り返しになるが、“教育の真の目的は何か”と問われたならば、それは“子どもたち一人ひとりが社会性を身に付けること”だと答える。これは何も公教育だけの話ではなく私どものようなフリースクールにおいても目指すべきところは同じである。もちろん、“学業”を身に付けることは学校/スクールという教育機関の大前提ではあるが、それと同等に、時にはそれ以上に、“個と集団”のあり方を心得ることは学校/スクールの必須条件なのである。 その意味において、新聞やテレビなどのマスコミに登場してくる校長が、“学校は勉強をするところであり、社会性を身に付けるところである”と言うことはまことに正しい認識であると思う。ところが、残念なことに現実には、そういうことを敢えてマスコミに向かって言わねばならないということは、その学校ではそれが実現できなかっただけでなく、事件を引き起こすまでになっていたということである。現実には多くの場合、それは言葉の綾であり、建前に過ぎないものになっている。 それは何故か。その一つは、教師は学校生活を終えた後にすぐに子どもたちの前に立つことが多く、他の職種に比べて自己研鑽を積む下積み期間が短く、また仕事の対象がいつも子どもたちであり、大人と仕事で渡り合うということはあまり多くない、その分社会性が身に付きにくい職業であるからということがある。社会性の問題だけを取り上げるならば、民間企業でもまれる人間の方がよほど豊富な社会体験をすることになる。一般の人間から見て、先生という人たちにどこか世間知らずの書生っぽい感じが拭えないのはそのためである。近年、教員の職業体験の必要性とか民間人校長の登用ということが盛んにもてはやされるなったのもそういう経緯からである。生徒たちはそういう教師たちに指導を受けながら学ぶわけだから、教科の指導には長けてはいても、勢い社会性が乏しい学校生活を送るようになることは止むを得ない。それに今まで学校は社会との間に塀を設け、社会の風が直接入り込まないようにすることを良しとしてきた。その結果として、子どもたちの社会性の乏しさが現在のような教育の危機を生み出した一つの要因ともなっていると考えられなくもないのだ。 結論を急ごう。端的に言えば、学校教育が擬似的な上からの“公”の尊重を子どもたちに要求するあまり、本来誰でもが有している掛け替えのない個をないがしろにしてきたのに対して、フリースクールは逆にもともとそれぞれの子どもたちが有している個性をそのまま認め、徐々に社会化を図るアプローチを行う方法をとっている。「個があっての公であり集団なのだ」という考えがそこにある。個が輝き、個々が響きひを発することによって集団もまた輝き、互いに響き合うのである。それがフリースクールの目指す教育である。アプリオリの善もなければ、アプリオリの“公”というものもない。はじめに具体的な生身の個々の子どもたちがいる。はじめに“個”ありきということである。それであってこそ、はじめて個も集団も生きるのである。 |