いじめで人は死なない
 

いじめで人は死なない 2006/11/30 

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    いじめで人は死なない

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今、マスコミで話題となりテレビでも連日取り上げられているいじめ・自殺問題について世間では大きな誤解をしているのではないか。

今もいじめ・自殺の連鎖が続き、マスコミ関係者の中には「自分達が報道するせいではないか?」などという悩みを訴えている人もいる。確かにそういう側面は否定しきれないだろう。報道がこれほど過熱しなければ「オレも死にたい」と思っていた人の中で自殺を思い止まった人もいたかもしれない。しかし、それは結果であって、それがその人の自殺の決定的な原因ではないだろう

生徒が自殺した時、マスコミがこぞってその原因を学校側に問い質す。マスコミの質問はいつもワンパターンで、もっと勉強してくれないかと思うことも多い。質問に全く深みが感じられないのだ。だが、それにもまして学校側の態度はひどい。自殺した子どもの家族の前では「いじめがあった」ことを認めておきながら、マスコミの前では「いじめと自殺の因果関係は分からない」と言い、さらに「いじめがあったかどうかは分からない」と言い、ついには「いじめはなかった」と言い切る。生徒たちがいじめの存在を認めているのにである。教育現場の常識がいかに社会の非常識なものかを如実に物語っている。

だから、当然そのような理不尽なことを平然と言ってはばからない学校や校長を初めとする教員への不信感は強い。バレバレの嘘を嘘で塗り固めてやり過ごそうとする学校側や教育委員会に対する風当たりは当然いつにも増して厳しい。「どうして学校側は素直に非を認めようとはしないのか」と世間の人のほとんどは思っていることだろう。

過去にほとんどいじめ体験を持つ不登校生を引き受けているフリースクールの立場から見ても、学校の教員の浅はかな保身の様は見るに醜い様である。通っている子ども達のほとんどが学校の嘘、教員達の嘘の姿をそこに見ている。これでは子ども達の学校不信の思いは高まる一方である。いや、教員達への不信を超えて、大人そのもの、人間そのものへの不信さえ生じている。教育の歪みの代償はとてつもなく大きいと言える。

だが、それでもなお、あえて言わなければならないことがある。それは、「いじめが自殺の原因ではない」ということである。「いじめで人は死なない」「いじめは自殺のきっかけにはなったかもしれないが、それが原因ではないのではないか」ということである。「普段、子どもの側、弱い者の側に立っている者が何を言うか」と思われるかもしれないが、これは普段子どもと共にいるからこそあえて言えることだと思っている。たとえば、--あえて言う--「フリースクールに来た子ども達は絶対死なない」のである。

人が死を選択するのは生きるエネルギーがスポイルされてしまっている時である。生きようとする意欲が失われてしまっている時である。では、どういう時に人は生きるエネルギーを失うのか。それは自分が生きていると感じられない時である。自分の命なんてどうでもいいいと思うようになる時である。自分の生命が価値あるとは全く思えなくなる時である。

自分の命の主人は自分である。だから、自分の命は自分で自由に処することができる。それで、生きるも死ぬも自分の自由だと思っている。だが、どんな自由があろうとも普通の人は自分では死ねない。何故か。それは自分の命は無数の見えない糸によって他者・他の生命と繋がっているからである。そういうアイデンティティによっと人は生きているのだ。

だから、人はどんな困難な状況に置かれようとも、そういう糸の繋がりが見えていたなら絶対に自ら死を選ぶことはない。自己のアイデンティティが確保されている限り人は自死することはないのである。それは自分が生きていていいのだという証であり、自分の生に対する「イエス」という声である。それは条件抜きでそのまま存在を承認する愛の声でもある。それは時には友達の声であり、時には教師の声であり、時には親の声でもあるだろう。あるいは、見知らぬ他人の一言であるかもしれない。とにかく、もしそのような声がその人の周りにあったならその人が向こう側に行ってしまうのを引き止める強力な声になったはずである

教師に何時間も説教された直後に自殺したという報道もあった。その教師の配慮のなさは論外としかいいようがないが、いじめや説教だけで人は自殺することは絶対にない。もしそれで自殺した人がいたとするならば、それはいじめた生徒や教師や学校関係者だけの責任ではなく、その人に関係した全ての人々に責任があると言っていい。自殺のきっかけを招いた人だけを責めればいいというものではない。少なくとも家庭に無条件にその子を受け止める空間があったなら(しばしば家庭は学校の論理に飲まれてしまう)、その人は死なずに済んだはずである。誰一人その人に届く「イエス」の声を届けられなかった--それをこそ悔やむべきである。

だが、人の命は一見柔に見えるけれども、極めて強靭なものである。簡単なことではギブアップはしない。もし、自分が生きてこの世にあることが周りから「イエス」と承認されているならば、人はどんな過酷な条件の中でも生きていけるのである。生き抜く逞しさを持っているのである。それはあまたの人の歴史が証明している。それが人の歴史を作ってきたのである。だが、もし、その人が誰からも認められ受け入れられていないと感じていたなら、その生命は路傍の石か棒切れのように無価値なものになる。そうなると死ぬことは道端の石ころを蹴るのと同じ行為に過ぎなくなってしまうのだ。

もし、あなたがその人の身近にいた人ならば、あなたはその人のために何をしたのかしなかったのか…それが問われている。