フリースクールとは何か(2)


2005年04月14日 フリースクールとは何か(2)

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□ フリースクールとは何か(2) ■----その独自の教育活動を考える(2)
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2005年度の新学期が始まった。満開の桜の花を背景に、子どもたちがまた元気な姿でやってきた。「不登校生」「学校に行っていない子どもたち」というレッテルで見なければ、どこにでもいる陽気な子どもたちである。だが、子どもたちは通ってくる中で徐々に変化を遂げたのであり、当初からそんな素振りの子どもたちではなかったのである。しかし、子どもたちにしてみれば、「ぱいでぃあ」に通っている中でいつの間にかそうなったという感覚かもしれない。

新しくやってくる不登校の子ども達を見ればよく分かる。そこにかつての自分たちの姿がある。そこから現在の姿に成長するまでどのくらいかかったろうか。だが、元気に振舞えるようになった子どもたちにそのことを思い起こさせようとしても、日々変化を遂げる中ではなかなか分からないとしても致し方ない。子どもたちはいつまでも過去に拘ってはいられないのである。また、嫌な過去はなるべく封印してしまいたいものである。だが、このことが時には大きな問題を孕むこともないわけではない。

フリースクールという存在は、教育的な関わりをする機関の中で、不登校生にとって最も理解ある支援の場であろうと思う。中には「不登校生の駆け込み寺」を自認している所もある。あえて短絡的な言い方で要約すれば、カウンセラーのようにその時間だけ役割を全うすれば務まるわけでもなく、病院のように短い診療で投薬さえ行えば済むというわけにもいかず、また、フリースペースのように自由勝手に単に活動していればいいというわけにもいかない。日々の学びもまた大切なのだ。フリースクールとは、学校の先生はもちろん家庭の親さえも扱い切れないと投げ出したような子どもを、子どもの側に立ち、日々行動を共にする中で救い上げ味方になって支援しようとする、学びと活動の場なのである。

もしそこに少しでも打算が混じっていれば、不登校の子どもたちはたちどころに、本能的にそれを察知するであろう。不登校の子どもたちは過去の生い立ちからして、大人の一挙手一投足に極めて敏感なことが多いのである。しかし、というか、それゆえ、と言おうか、不登校の子どもたちは時にはまた大きな勘違いもするのである。

そのことを説明する前に、「一体、フリースクールとは何か、何を目的としているのか」----この根本的なところを一般の人たちはどれだけ理解しているだろうか、ということがある。「フリースクールには一般に不登校の子どもたちが多く通っているが、それが目的の対象なのだろうか。それとも、他に目的があるのだろうか。」そして、「フリースクールでは、なぜ不登校の子どもたちを引き受けようとするのか。なぜそのことに情熱を燃やそうとするのか?」--本のフリースクールに対する多々の疑問がありそうである。

フリースクールは近代国家が課した近代教育の枠を疑問視している。フリースクールの「フリー」とは「国家という枠からフリー」であるという意味もある。そして、教育は国民のもの、とりわけ子どものものであり、教育の主役は子どもたちであると考えている。子どもこそ教育の受益者であり、また次代の社会を支える使命を持った人たちであるから、これは当たり前の考え方であるとも言えるわけだが、実際には大人の都合、とりわけ親の都合で大きく左右される場合がとても多いのである。

それでは、教育では「子どもが主人公」であり「子どもが主役」であるということはどういうことか。ここに少なからず誤解が生じやすい。フリースクールというところは、何よりも「子どもの味方」であることに異論はないだろうが、このことは、一般で誤解されているように「子どもを野放図に甘やかす」ことには決してならない。フリースクールでの教育は、定見もなく子どもの要求にただ唯々諾々と従い、子どもたちを勝手気ままに育てて骨抜きにすることが目的では決してない。

むしろ、子どもたちがそれぞれ自尊感情を持ち、自立的自覚的な生き方を身に付け、自身の頭でよりよく考える人間に育ってほしいと願っている。だから、時には、その能力に応じて厳しそうに見える要求をすることもまま出てくるのである。「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があるが、よりよく育つためには、出来る範囲でそれに耐えうる資質を子どもたちに求めることも出てくる。

ところが、中学生ごろの子どもたちは、「自分たちの味方であるなら、○○もまた許されるだろう」と考えがちである。「自由」であることと「放縦」であることとの区別がまだ付いていないのだ。とくに欧米の先進諸国と違って、子どもの選択と自由の問題に関して明確な方針がない日本の場合には、「自由」とは「責任」が伴うとても重い行為でもあることに中々気付かない。ともすると、自分で考えることをお留守にした「指示待ち人間」の軽さで考えがちである。だから、自分たちのやろうとすることに「待った」がかかると、「なんでー」「どうしてー」「自分たちのことを分かってくれると思っていたのにー」となり易い。「○○だからなんだ」とまで推測して深く考えないのである。

「良薬は口に苦し」「諌言耳に逆らう」ともいう。ためになる言葉は本人には受け止めにくいことが多い。「気をつけよう、甘い言葉に暗い道」という標語もあるが、子どもに限らずとも、人はともすると安易な方向に流されがちである。そして、そういう自分を合理化する方法や言葉の類は腐るほど持っているのが常である。

普段、我々は子どもたちを支持し支援する言葉を多く使い、諌める言葉にはどうしてもマイナスのイメージや響きが付きまとうので、あまり本人のためにならないと考えて、普段はなるべく使わぬよう控えている。しかしもし、赤ん坊が火傷するかもしれない場面、あるいは溺死するかもしれない場面に出会ったらどうするか。理屈はさておきまずはその危険から遠ざけようとするのではないか。その時、納得するまで説明している猶予はないのである。

フリースクールをやっていても、こういう場面に遭遇することがある。もしかすると、その本当の意味は思春期を過ぎ、成人の領域に踏み込まなければ分からないかもしれない。しかし、火急を要することはそういう年月の到来を待っているわけにはいかないのだ。

実はこういうことは、不登校の子どもたちには意外に卑近なことかもしれない。考えてみれば、「自分がなぜ学校に行けなくなったか」--それをうまく説明ができないこともしばしばである。論理的に思考した結果というより、それより先に身体の方が言うことを利かなくなったということの方が多いかもしれない。いわば無意識の志向が子どもを行動に向かわせたわけだが、それを他人が理解できる言葉で置き換えられるようになるには、今という状況を風景のように眺められる時間的空間的な隔たりが必要であろう。逆に言えば、自分で自分の運命を切り拓ける年齢になった時には、もはや取り返しが不可能なくらい時を経てしまっているということである。渦中の人間はただ翻弄されるだけで、自ら変わることはとても難しい。そこに傍にいる人間の役割があるのだ。

私たちは、今を生きる子どもたちの現実をリアルに見つめたい。教育は様々な社会の転変に左右されやすい。「公」教育の「公」はどこにあるかという問題もあるが、「公」教育の振幅が大きく、時の政治の動向をもろに受け易い。また、親の育った時代の教育観の影響も避け難い。そういう中で絶えず子どもたちの育ちや学びの問題に焦点を当てて教育を行いたいと考えている。

だから、子どもの側に立つためには、時には学校に物申すことも、学校の先生と談判することも出てくるし、子どもを真ん中にしてより良い方向を学校と一緒に模索することも出てくる。また、時には、親の依頼を受けながら親としてのあり方に注文を付けることもあるし、また、子どもの味方であるからこそ子ども本人に対してその能力に応じて辛口の要求をすることも出てくる。フリースクールで引き受けるからには、その子の現在と共に未来に対しても責任を持たねばならないと考えている。

かつて「ぱいでぃあ」に通っていた不登校生が高校や大学で活躍し、時にはお手伝いにも来てくれる。そんなことから、「やって良かった」----フリースクールの存在意義を改めて見直したりもする。それにしても、日本の学校教育で「子どもたちが主人公」となるのはいつのことなのであろうか