フリースクールとは何か(1)


2005年04月10日 フリースクールとは何か……新年度の始まりにあたって

┏━━━━━━━━━━━━━━┓
□ フリースクールとは何か(1) ■----新年度の始まりにあたって
┗━━━━━━━━━━━━━━┛

明日から新年度の授業が始まる。子どもたちはどのような姿で現れるだろうか。休み前の状態をそのまま維持してくる子もいれば、このわずかの機関に大きく変貌してやってくる子もいる。子どもたちの間で「時間」がどう流れたかである。

中学1年生の子は2年生に、2年生の子は3年生に進級して新しい年度に臨むが、フリースクールで英気を養った子どもたちは、その立ち直りに応じて活動にいそしむ。フリースクールに来た子どもたちの中で何も変わらずそのままであるということはまずない。心の状態にせよ、身体の状態にせよ、また学習の進度にせよ、確実に前進している。フリースクールというところはそういうところである。

では、フリースクールには学校では考えられない子どもを立ち直らせるマジックでもあるのかと思われるかもしれないが、もとよりそんなものがあるはずはない。子どもたちが秘めている力を素直に発揮させるだけである。では、そういう場さえあれば誰でも可能なのかというと、それもまた違う。学校には「問題ない」生徒が通い、塾や習い事の場にはある部分に特化した才能をさらに伸ばすために通う。心の問題であればカウンセラーや心療内科等に通い、本当の病気であれば病院にかかることになる。

だが、フリースクールという場は、それに特化したことを行えばいいというわけにはいかない。その全てが必要であり、そのどれかが欠けていても旨くいかない。あなたは病人で私は健常者、あなたは相談する人で私は聞く人、あなたは教わる人で私は教える人、というわけにはいかないのである。塾で勉強を教えられるから不登校の子の理解を得られるとか、カウンセリングの手法を心得ているから不登校の子の気持ちが分かる、なんて思っていたらとんでもないことである。それは、論より証拠、自身が不登校の子の前に立ってみれば分かることである。

近年、不登校の子どもへの理解が少し進んだように見えるのは喜ばしいことだが、根本的なところはあまり変わってはいない。今までにも、いろいろな方に参加してもらい、お手伝いもいただいた。中には、将来「先生」を目指す学生や、臨床心理士を目指す研究者、進学塾に関わりながら子どもの教育の在り方を模索したいと関わってくれた人もいる。しかし、想いはあっても旧態依然の観念からなかなか自由になれない人であれば、日々の関わりの中での一挙手一投足でそのあり方が子どもたちに見抜かれてしまう。「この人はビジネスとして関わってはいないかどうか」。そういうことが普段の何気ない仕草の中で暴かれてしまうのである。その意味では鋭くシビアな子どもたちではある。
それで、子どもたちと交わりそこから学ぼうとする姿勢は有難いことだが、どれだけ多くの人が来ては去っていったことであろう。逆に言えば、そこが了解されていれば、何ら人為的な小細工をする必要は一切ないのである。学校関係者はそこのところが分かっているだろうか。

「ぱいでぃあ」は学校に毎月、通級報告書を提出して出席日数に換算してもらっているが、ただ出席日数だけを知りたがり、その子が「ぱいでぃあ」でどういう活動をして過ごし、現在どういう状態にあるのか--私たちは日数の報告よりもこちらを重視している--はどうでもいい付けたしのように考えているのかなというような学校の先生の態度に接すると、道はまだまだ遠いものを感じてしまう。

ともあれ、希望を取り戻した子どもたちの元気な顔を見たい。会うのが楽しみである。



トップへ
トップへ
戻る
戻る