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人間・相田みつを

老いも若きも男も女も、ここに来て涙し、慰められ、勇気づけられ、
そして、人間への共感と生きる希望を取り戻していく…

現代人の心のバイブル人間・相田みつを
その書と言葉、生き方について
(作品転載許可済み)


語り手:相田みつを美術館館長・相田一人
聞き手&解説:『ニコラ』編集長・馬場 章



■相田美術館一周年記念特別企画 『生きる喜び…相田みつを展』

 一人の女性が目を見開きながら涙している。一人の学生が一字一句忘れぬようにノートにペンを走らせている。初老の男性が時間を忘れたように立ち尽くして見入っている。不登校だった女の子の胸の中で生命に触れる熱い何かが爆発する。……こんな光景をあなたは見るだろう。いや、あなた自身がそこに立ち、抑えきれない熱い涙を流すのかも知れない。「この人だった。この言葉だった。この書だった……。」と。

 都会の荒野の中で、人間砂漠の中で、吹きすさぶ風に舞い転がる砂粒のように孤独な生を営んできた人たち。職場や学校の人間関係の中で自分を見失ってしまった人たち。社会を恨み人を恨み自分の生を呪い心の暗い迷宮を彷徨っていた人たち。真実を求め愛を求め友情を求め人の温もりを求め求めれば求めるほど拒絶や裏切りの壁にぶち当たり傷ついてきた人たち。そして、人の力を超えた天変地異によって一瞬にして肉親も家や財産も明日への希望も失ってしまった人たち……。その人たちの心に仏の慈悲の言葉のように響く「書」をかき続けてきた人がいた。「相田みつを」その人である。

     *     *     *

 相田みつをの書や言葉に触れてきたのは既に久しい。しかし、私もまたその書や言葉が相田みつをのものであることを意識しないできた一人である。すぐ目の前に、その人を知る手掛かりがありながら。

 相田一人氏、現相田みつを美術館館長は相田みつをのご長男である。その相田一人氏とはかつて机を並べて仕事をしていた同僚であった。その当時、すでに相田みつをの名は聞こえてきていて、同じ出身ということから一人氏に「親類か何かなの?」と訊いたことがあった。彼は「ええ、まあ」と多くを語ろうとはしなかった。

 一人氏は一種不思議な雰囲気を持った青年であった。どんな場面でも決して怒りをあらわにすることはなく、超然とするというのではなく世俗とは少し違った次元を生きているような趣があった。一人氏によると、私もまたどこか違う世界に生きているように映っていたらしいのだが。彼は当時何一つ父君みつをさんのことについては語らなかったが、今にして思えば、成る程と頷かれることが多い。その後、私たちは別々の道を歩み、数年後一人氏がデザイン関係の仕事で輝かしい脚光を浴びる業績をあげたことを知った。しかし、それでも、私の中で相田一人氏と相田みつをとを結びつけて考えることはなかった。しかし、私が『ニコラ』を発行していく中で、一つのベクトルとして向かっていくその方向に、相田みつをの仕事があり、そこに相田一人氏がいたという新たな出会いを体験することとなった。

 そこで、今回は、旧交を温めると共に、年齢性別を問わず「現代人の心のバイブル」として既に四五〇万部を突破するという相田みつをの書の魅力、その人となり、子から見た父親像などを、「相田美術館一周年記念特別企画『生きる
喜び 相田みつを展』」という超多忙な中、館長相田一人氏に語っていただいた、そのさわりの部分をご紹介する。

 ◆ 独自に開いた書の世界 ◆

馬場 短歌は一〇代から始められたのですか。
相田 そうですね。書もそうなんです。
馬場 その時からこういう書体というか…。
相田 いいえ。全然違うんですよね。
馬場 何かピカッとひらめくというか、思い立ったことがあるんだろうなっていう気がしますね。
相田 若い頃はですね、これにありますが…。
馬場 隷書体。
相田 はい。これは二二歳の時なんですよ。何かコンクールに出して賞をもらった頃で。生まれが大正一三年ですから。大体昭和の歩みと同じなんですよ。戦後に本格的に活動し出したんですけど。その頃は、こういうものを書いたりとかして、毎日書道展にずっと入選しているんですよ。ですから、そこに所属してその道でずっと行っていれば審査員とかそういうとこまで行ったんだろうと言われてるんですけど。途中でリタイアしちゃうんですよね。その三〇代半ばくらい頃から、人の言葉ではなくて自分の言葉を書くようなスタイルを…。
馬場 それは、仏教との出会いも大きいんですか、やっぱり。
相田 それもあるでしょうね。旧制中学を卒業した頃に、武井哲応老師という方に出会って、『正法眼蔵』を勉強させてもらったんですよね。その影響がありますから。もともと短歌をやってましたから、歌人として生きたかったという面もあるようですね。本人は、嘘か本当か分からないですけど、本当は絵描きになりたかったというんですね。芸大を目指したらしいんですけど、戦争中はそういう非国民的な仕事(笑)が許される境遇じゃなかったんで。まあ、才能もなかったんだけどと言ってましたけど。絵が割と好きだったんですね。で、言葉を非常に短歌で鍛えた。生涯短歌を作り続けたんですね。でも、一般に発表することはほとんどなくて。短歌というのは、やっぱり短歌の仲間うちだけでいい悪いというのは分かるけど、一般の人がみてそんなに簡単に入っていけないところがある。それで短歌を離れて、こういう短い詩みたいな形式になったみたいですね。
馬場 これは何かモデルみたいなものはあったんですか。例えば、武者小路実篤とは随分違うと思うんだけど。
相田 全然。相田みつをを紹介する場合に一言で言いづらいのは、モデルがないんですよね。先例がないというか。武者小路実篤とは、また全然違う世界なので。
馬場 そうね。白樺派みたいな、ああいうのとは全然違うものね。
相田 そうですね。書家・詩人と言ったからといってイメージが伝わるかというと、そうでもないんですよね。その辺のところが難しいところなんですけれどもねぇ。
馬場
 これは自分で独自に開いていった…。

 ◆ 名を知らずに親しまれて ◆

相田 そうですねぇ。だから、最初の方の『人間だもの』という本が出たのが、厳密に言うと五九歳で、六〇歳の時なんですよ。熱烈なファンというのが昔からいて、ファン層もかなり広かったんですが、一般に知られるのが六〇歳の時で、この本によってなんです。そういう世間的評価が遅れたのは、一つは捉えどころのない仕事だったようなところがあるんですね。その代わり、意外と皆さんこの「みつを」という言葉とこの書体と作品はどこかで見ていらっしゃるんですね。それが相田みつをの書だというのは全然知らなくて。
 これは衛星放送のビデオなんですが、この中にも出てくるんですけど、広島カープの津田投手というあの人が、ファンから贈られたこの「道」という詩があるんですけど、これをずっと肌身離さず持っていて、ところがそれが相田みつをの詩だとは全然知らないでずっと持っていたんですよ。生涯心の支えにしていたということで、三年ほど前に日本テレビの「知っているつもり」で「津田恒美編」をやった時に、最後にこの詩が出てきて、「津田投手が愛していた作者不詳の詩です」ということで紹介されたんですって。そしたらクレームの電話がドーッとあって、「あれは相田みつをの詩ではないか」と。で、「知ってるつもり」がこちらの方に謝りに来たんですね。そんな縁で、今年「知ってるつもり」で「相田みつを編」というのがあったんです。
馬場 なるほど。津田投手のが放映されたのは知っていたけど、見なかった。
相田 「相田みつを」って知っていますかというと、「いや、知らない」という方も、これを見るとね「あっ、この人。みつをっていうこれ」というのは結構知られていますね。知名度に非常に不思議なバラツキと広がりがあって。結構知られているという面もあるんですよね。それと、どこかでこういう作品を見て感動して手帳に書き留めていただいているというのがあるんですよね。あとよくあるのは、こういう日めくりがあって、よくアンケートにもあるんですが、「相田みつをとの最初の出会いは、酔っ払って入った居酒屋のトイレでした」と書いてあって。そういう方が非常に多くて、トイレの中で出会って感動して、ただ、どこの誰だかも全然分からない、これはどこで売っているのかも分からないし、と。そういう出会いで、相田みつをそのものは知っているけれども、「相田みつを」って聞かれても分からないという方は多いんじゃないで
しょうかね。

 ◆ 誰にでも親しまれる言葉 ◆

相田 だから、作品にいきなり直に触れちゃうと意外と反応はあるんですけれども、こういうもんだ、ああいうもんだ、と説明すると分かりづらいんですよね。それと、こういう特殊な仕事ですし短いですから、いわゆるインテリ層というか、書評や何かで載ってくる本ではないんですよね。だから、朝日新聞あたりで新刊本で取り上げるという本ではないんですよね。でも、じゃあ、インテリ層と言ったら変なんですけれども、そういうところに人気がないかというとそうでもなくて、野村証券の田淵さんも非常なファンですし、結構実業界のファンも多いですね。そうかと思うと、小学生みたいな子がいいとか。
馬場 すごいなあと思うのは、相田さんの言葉が、小さな子どもから高齢のご老人まで、どの人にも親しまれ、読まれる言葉だということだね。
相田 そうですね。父も自分の創作態度の基本的スタイルとしては、難しい言葉は絶対使わないということと、自分の納得した表現しか絶対使わないということでやってきましたんで。
 書家の字というのは、意外と分からない字が多いですよね。あまり達筆すぎて。よく書の展覧会に行くと、その解説を読まないと何が書いてあるのか分からない、そういう書の世界を非常に嫌ったところがありまして。言葉というのは、書というのは、やっぱり意味を表さざるを得ないという宿命がありますから、だから読めなければ意味がないんじゃないかということで。
 本来の本名は「光男」なんですね。戦後すぐに父が言うには、これからはもう平仮名の時代じゃないかと。その当時の書道教育は、もう進駐軍によって否定されましたし、もう筆で漢字を覚えて、そういう時代は変わっていくだろうと。これからは、自分の気持ちを伝えるためには平仮名しか使えなくなるんじゃないかということで、平仮名中心にして、こういう名前も「みつを」にしたんです。
 原点は短歌にあって、やはり言葉を非常に鍛えましたので、リズム感がすごくあるところはあるんですよね。最近、真似とか亜流と言っちゃあ大変失礼なんですけど、似たようなことをやっていらっしゃる方は多いんですけれども、すごくイージーな感じの方が多いですよね。
 相田みつをの場合は、書家ですから書でしか自己表現できなかったので、こういう仕事で一貫した必然性があるんですけれども、今よく書かれている方は、例えばお坊さんであったりとかタレントさんであったりとか、不思議なことに専門の書家の書かれたこういうものっていうのは一冊もないんですね。
 よく、その、人生訓とかね、誤解されてしまうんですけども、そういうものでは決してないんですよね。常に自分に向かって発信している言葉であって、人に向かって言っている言葉というのじゃないものですから。こういうものというのは、ちょっと視点とか、発信するポジションを間違うとお説教に脱しちゃうことであって、全てが全てどうのこうのと言えないんですけど、父の基本的姿勢は同じ地平で、例えばこれもそうですよね。
馬場 「人間としてのわたし」で出て来てくるよねぇ。
相田 はい。「あのね」一つが入ることによって…。
馬場 この「あのね」一つにしても、仮名で書いてるということもあるし、随分その一つひとつに調子の違いがあって、「あのねぇ」っていう感じもあるしね。
相田 そうなんですよね。父が言ったんですけど、いきなり、例えばここから始まっちゃうと、頭にカチンと来ちゃうというのがあると。「あのね」一つが入ることによって、頭にのぼった血がすっと下がるというのがある。そういう表現の細かな意識があるんですよね。
 だから、結果的には非常に平易な言葉で簡単そうなんですけども、いろいろな推敲があって出来たもので、その推敲している裏側を見せないですから、楽屋を見せないんで、平易な感じがするんですけども、言葉が生まれるまでには相
当な時間がかかってるんですね。

 ◆ 書としての完成を求めて ◆

馬場 ずっと小さい頃からそれを側で見てきた…。
相田 そうですね。まあ、横でやってましたからですね。例えばこれなんかも一見簡単なんですけれども、「雨」と「雨」、字が違いますよね。「風」と「風」が違いますよね。で、「の」が全部違うんですね。「日」も違うし。つまり、同じような文字が出てくると単調になりますから、全部意図的に変えてるんですよね。よく、「相田みつをの素朴な書」というような言い方をされるんですけれども、結果的に素朴に見えるだけであって、プロの書家ですから技術的な工夫というものはものすごい真剣にするんですね。だから、素人の方が普通サラッと書くんであれば単調になるんですけれど、全部こうなってるんですね、変化をつけて。晩年はそういう意図的に変化をつけることを嫌って、割と淡々としたスタイルになったんですけれども。非常に書としての完成度を求めましたので。
 これでは分からないんですけれども、例えばこういう作品を書きますよね。すると、一つの言葉を集中して取り組むんですよ。例えば、一晩に句を書くとしたら、百枚、二百枚と書くんですけれども。その中で落款を捺すのは一点なんですね。あとは全部燃やしちゃうんですよ。「ふ」なんて字は好きですから生涯書き続けたんで何万点書いたか分からないんですけども、残してあるのは数点なんですよね。
 ある時期、この作品を書いて、例えば展覧会で売ったとしますよね。でも数年経つとやっぱり気に入らなくなってくるんですね。そうすると、気に入らないからということで新しい作品に変えてもらったりとか、買い戻したりとか、で、戻したやつは燃やしちゃうんですよ。「生涯納得のいく作品は一点もない」というのは口癖でしたので、その通り古いものはどんどん燃やしちゃったんですよ。

 ◆ 身に見えない細心の計算が ◆

相田 父の場合は、書家の方はみんな同じだと思うんですけど、書いたものを自分でトリミングするんですよ。これなんか横幅が一m三〇くらいの大作ですけど、小さなものでも大きな作品でも書くときは同じ大きさの紙を使うんですよ。これ以上もっと大きな感じで。例えばこのくらいのサイズの作品を書く場合でも、紙を小さく切って使うということは絶対にしないんですよ。つまり、フレームがあるとそのフレームに合わせて書くので、フレームを嫌ったんですね。ですから、紙の使い方がすごい無駄な使い方をしたんです。
馬場 こんな小さな作品を書く時も…。
相田 大きい紙を使ったんですよ。で、書き上げたあとにトリミングするわけです。それが本当にミリ単位でやってるんですね。それでもヘタすると一週間くらい一ミリ二ミリ上下線引いて。それで作品に仕立ててるものですから。やっぱり余白というのは書の場合一番大事みたいですからねぇ。その一ミリ二ミリに自分の命がかかっているということを言ってましたね。出来たものは結果的には非常に平易な感じなんですけど。こういうものでも、余白のつくり方には独特の計算があるんですよね。
 よく言葉だけで捉えるようなんですけど、実際見てみると、そういう微妙な余白の効果なんかが何となく伝わってくるんですよね。
馬場 だから余計自然に見えるんだろうねぇ。さりげなく見えちゃうというのは、そこに見えない計算があるんだろうねぇ。
相田 そうですねぇ。その辺の計算が表に出て、ああこれはそういうところを狙っているなと思われるのも嫌だったんですね。
馬場 案外、そういうのが前面に出てくる作品もあるよね、世間には。
相田 そうですね。そういうのは自分では嫌だったんですね。で、よく言ってたのは、例えばこういう作品を一晩に百枚書くと一枚目より二枚目、三枚目、四枚目の方が形が整ってきてうまくなるんですよね。ところが、結果的には一枚目が一番いいケースが多いと。技術的にはちょっと微妙なところがあっても、最初の感動が一番出ている作品もあるんですね。結局一枚目が一番いいというのを納得するために百枚二百枚書くというのもあるんですね。あるいは、うまく書こうという気持ちがなくなるまで書き込む。こういうテクニックがあるんだとか、こういう効果を狙っているんだというのがなくなるというか、表に出なくなるまで書いて書きまくったって感じですね。ですから、書に関しては筆一本で生きましたから、間違いなく文字通りプロの書家だったんですけどね。



 ◆ 精神の自由を最優先 ◆

馬場 あの、昔、それで生活が成り立ったんですか。
相田 いやあ、不思議なもんですけどね。(笑)私と妹がいましたので、今考えると何で生きてこられたのか不思議ですよね。
馬場 足利という歴史のある街ということはあると思うけど…。
相田 生涯、筆以外の収入は得ないということで、私の母親にもパートだとか内職は一切封じたんですよ。それは一つは、よくその頃問題になったんですけど、鍵っ子なんて言葉が出てきたんですけど。家には子どもが学校から帰ってきて「ただ今」って時に「お帰んなさい」と迎えてあるのが母親の一番の務めだと。そのことの是非はまた別なんですけど、父はそういう考えだったものですから。僅かなパートのお金のために子どもが帰って来た時に、小さい子どもにとって母親は絶対の存在ですから、「お帰んなさい」という声があるかないかでその子どもの将来がどうなるか左右されるという考えだったんですね。それで一切仕事をさせなかったんです。逆に自分の女房に若干でも財力があると、どうしてもそれに自分が頼っちゃうんじゃないかと、そういうところがあったみたいですね。だから、一切収入を得させなかったみたいですね。その代わり、ここにもちょっとありますが…。
馬場 ああ、「最中(もなか)」とか、いろんな包装の…。
相田 ええ。これは今でいうとコピーライターみたいな仕事ですけど、ネーミング、これも自分で名前を考えて、商標を取るんですよ。で、デザインもして、栞(しおり)も書いて、こういうのをワンセット全部自分でやりますので、ある程度の収入になったんですよね。これはもう、足利の銘菓というか、ずっと使われて、この栞が欲しいのでこの最中を買うという方も。それも相田みつをとは全然知らなかった方が多いんですよね。
馬場 そうだ。見逃していたけれども、こういうの入っているお菓子ってあったよね、いろいろ。知らなかったねぇ。
相田 まあ、昭和三〇年代というのは、まだ高度成長のちょっと前くらいだったので、世の中全体が貧しかったんですよね。ですから、家も極端に貧しかったといえば貧しかったんですけど、周辺も貧しかったのであんまり際立たなかったんですよね。それと父親自身が八畳一間に一家四人くらいでいたんですけど、その横にアトリエだけはいろんな縁でファンの援助などがあって三〇畳くらいの広いアトリエを建てたんですよ。
馬場 ほぉー、なるほど…。
相田 その点は凄い贅沢なんですね。つまり、自分にとっては仕事が第一なんで、仕事をするために広いアトリエが大事だと言って。天井も高くなくちゃいけないとか、そういうことで広いアトリエを持ったんですけども、母の親戚などが、三〇畳のアトリエがあるんだったら、その一角を一〇畳ぐらい仕切って家族が住めば間借りなんてしないでいいじゃないかと言ったんですが。生活のにおいが持ち込まれると仕事場じゃなくなっちゃうんですよね。だから、家族は狭い間借りなんですけど、自分は仕事やる場を確保するという感じなんですね。
 あと、道具や何かにしても、硯、筆、紙にしても最高のものを使ってましたので。で、昭和三〇年代当時で、一晩で三万とか四万の紙を使っちゃうんですよ。当時の三、四万というのは今で言うと何十万のあれですから。で、父の仕事振りというのは、一回一回が本番主義で、練習ってないんですよ。だから、練習用の紙というものがあるわけじゃなくて、先程の創作態度でもそうですけれど、百枚書いて結果的に一枚目がいい場合もあるので、だから、いつ自分の気力と筆の運びと墨の状態なんかが一致していい作品が書けるか分からないですから、練習用の紙とか本番用の紙というのは一切ないんですね。常に本番用の一番いい紙しか使わないんですね。だから、膨大な紙の、天井までこう、いつも紙の山だったんですよね。
 だから、自分のやりたいことや何かを最優先してましたから。
馬場 すごいなあ。
相田 だから、貧乏を看板にして、「俺は貧乏で金がない」というのは公言してはばからなかったんですけど、人から見ると、アトリエやって自分気ままに書いて、すごい金持ちなんじゃないかと思われることがありましたけど。
馬場 なるほど。
相田 本人がお金には不自由してても自分の仕事には自由に打ち込んでいましたので、結局その、精神の自由を取るか生活の安定を取るか二者択一で、自分は精神の安定を取ったので、精神の安定を取った人間が生活が不安定だということでなければいけないというのは自分で言ってましたし、自分で納得した生き方でしたから、最初から金に縁がないというのは諦めて、個人的に入ったからといって、その代わり精神的な自由だけは絶対に維持したいということだったみたいですねぇ。

 ◆ 人間をトータルに肯定して ◆

馬場 かといっても実社会でお金がいるわけで、お母様はたぶん…。
相田 いゃあ、大変だったと思いますねぇ。父自身もそうは言ってはいても、ここにもありますように、「かねが人生のすべてではないが、有れば便利、ないと不便です、便利な方がいいなゥ」って書いてるんですね。(笑)これはやっぱり本音のところなんですよね。(笑)だから、常にその、父の作品って意外と単純そうに見えて、二面的というか複眼的な思考で書かれているんですねよね。だから、「金が人生の全てでない」と言い切っちゃえば、それはもう単なるお説教に過ぎないんですけれども、金が人生の全てではないという大前提を踏まえていながら、あれば便利だし、ないと不便だというね、これは一般的なことなんですけど、「じゃあ、お前はどうなんだ」と言われれば、「便利な方がいい」ということで、常に両方の視点からものを考えていたようなところがあるんですね。
馬場 「ねばならない」と言い切っちゃう形じゃないんですよね。
相田 ないんですねぇ。で、そういう面が書体からも言葉からも何となく伝わるんじゃないかと思うんですけどねぇ。意外と複雑な面を孕んでいる作品じゃないかと思うんですね。
 例えばここに、「ぐち」ってありますよね。「ぐちをこぼしたっていいがな」って。この作品がうちの美術館に飾ってあるんですけども、その横にひょっとですねぇ、先程のこの「道」ってありますよね、津田投手の…。で、「涙なんか見せちゃダメだぜ」って言うんですね。そうすると、お客様から「全然違ってる」と言って。「相田みつをさん、一体どっちを考えていたんですか」って質問がたまに出ることがあるんですよね。だから、「ぐちをこぼしながら生きたっていいがな」という面と、「ぐちをこぼさないで黙って歩く」という面とやっぱり両方あったと思うんですよね。だから、どっちが相田みつをの本音で、どっちが本音じゃないかということじゃないんですね。人間をトータルに肯定していたとこがあるんじゃないかと思うんですよね。
 割とあからさまにさらけ出したところがありますので、人によっては、相田みつをの「あ」の字を聞いただけでも虫酸が走るという人もいるでしょうし、逆に相田みつをのものなら何でもいいという人もいますよ。父もそれを知っていて、「誰からも好かれて誰からもいいねなんて言われるのは芸術作品として絶対あり得ない」と、「賛否両論があってそれが健全
な姿なんだ」と言ってましたね。


 ◆ 生きている人間の本音を ◆

相田 だから、悟った人間とか、そういうのでは全然なくてですね、あくまでも自分の生き方を求めてのたうち回って、そののたうち回った過程を作品にしてきた人間じゃないかと思うんですよね。だから、ここにありますように、「悩みは尽きないが生きてるんだもの」というのが一つあるんですよね。宗教的なバックボーンがありますので、仏教的な色彩があるんで、よく宗教と誤解されちゃうんですけども、勉強したりいろいろしたからといって悩みが尽きるわけではないんですよね。悩みは尽きないなあというところを踏まえながら、どうやって生きてるかというところを模索したんじゃないかと思うんですけどね。
 アンケートや何か、今の若い人のを見ますと、すごく真面目に考えていますよね、皆さん。特に若い人がですね。美術館を始めてみて初めて分かったのは、それまで関心がなかったんですけど、オウムの事件ありましたよね。ああいうふうに若い人がどんどん入っていっちゃう、あれが何となく雰囲気分かりましたね。すごくみんないろんなのを求めていて、解答がないんで、誰かがポッと解答を出してくれると、それを信じて突っ走っちゃうというのがすごく分かりましたね。
 けれども、一番ユニークだったのは、『ティーンズロード』と言いまして、最初何の雑誌かなって思ったんですよね、可愛い女の子向けの雑誌かなあって思ったんですよ。そして、いきなり取材に来て、掲載誌も何も持って来なくて、服装を見たら、こうメッシュが入ってて、要するに暴走族の雑誌なんですよ。すごい本音の雑誌っていえば本音の雑誌なんですよ。「暴走族の雑誌で特集したい」ということで、「何でうちなんかに来たんですか」って言ったら、ある女の子に取材に行ったら、拒食症から過食症になって自殺未遂を繰り返した子らしいんですよ。その子が自殺を思いとどまったのが相田みつをの本だということで、見せてくれたらしいんですよ。その子も当然、暴走族の子なんですけれども。それで非常に興味を持って取材に来たということで。
 毎日新聞でも取り上げてくれたんですけれども、暴走族の雑誌でも取り上げてくれるということで、幅広いってわけなんですけど。(笑)ああいう子たちって、ある意味で非常に傷ついている子が多いみたいですし、本音の言葉しか受け付けない子たちですよね。
馬場 建前、見抜いちゃっているからねぇ。
相田 そうなんですよね。やはり、ああいう中で強烈な生きざまを体験していますからね。表面的に取り繕った言葉では全然きかないんで、そういう子たちが反応してくれというのは、ある意味じゃ嬉しいなって思うんですよね。


 ◆ 心の時代を予見 ◆

相田 あと、この「ひぐらしの声」なんていう作品があるんですけど、これだって意外と小学生から好きな作品であがるんです。こういうのは小中学生などが読んでも分からないんじゃないの、むしろ父と同世代の戦争を体験した世代が分かるものと思っているんですけれどね。これに流れている肉親に対する情感みたいなものは小中学生でも分かるみたいですね。今は確かに世の中が非常におかしくなっているなという感じは強いんですけど、逆にそうなればこそ、こういう相田みつを作品というのが求められるようになったのかなという気がしますね。一部熱狂的なファンもいましたし、父の生きている頃も『人間だもの』という本は七、八十万部売れていたんですね。丁度父が亡くなったのが平成三年で、バブルが完全にはじけた頃ですよね。その後一段と読まれるようになったというか、父が本格的に仕事を始めたのが昭和三十年代後半ぐらいですので、その頃は高度経済成長の真っ盛りで、それこそイケイケドンドンみたいな所得倍増の時代にこういうことを書いていたので、時代と相当ギャップがあったんだろうと思うんですけどね。だから、ファンもいたんですけど、心より物みたいな時代に。
馬場 もうその時すでにその、日本の社会が高度成長で進んでいく時に、そういう目を持って日本の社会の動きをみていたということかな。
相田 そうですね。それはあったと思いますねえ。ですから、父が本格的に仕事を始めた頃からもうすでに精神的なものというのを自分の仕事のベースに置いていましたので。あの頃はどんどん物も豊かになって、生活も豊かになって来ましたから…。
馬場 そういう声がどちらかというとあっても消されていくような…。
相田 そうですね。今でこそたとえば「心の時代」なんて言葉を言っても、みんななんとなく納得しますけれども、昭和三十年、四十年代に「心の時代」なんていう言葉はまだまだ定着していなかったし、出てこなかったですね。やはり七十年代オイルショック以降、少しずつ風向きが変わってきたようなところがありますね。それまでの急成長から水平にやや右肩上がり的な感じになってきて、大分変わってきたと思うんですよね。父がしてきた仕事というのは、一貫して変わってはいないと思うんですけど、それを見る世の中の方が相当変わった気がしますね。ですから、やはり類例のない仕事という面がありますので、理解され難かったというのはありますけれど。ここ数年じゃないですかね、広く知られるようになったのはですね。

 ◆ 命への感動を持ち続けた ◆

馬場 ずっとそういうのを、相田君の場合は見て育ってきたわけでしょ。
相田 ええ。十八まで側にいましたからですね。私からみるとある意味で子煩悩な父親だったものですからねえ。ここにもありますけど、これは私が生まれた時に作ってくれた歌なんですよ。「手の平に我がのせたれば人間のその始まりの生命が動く」という短歌で、これは自分の父親の短歌ということをちょっと離れても、初めて生まれた子どもを父親が手にとった時の感動が非常に素直に詠まれているいい短歌じゃないかなぁと思うんですけれどね。この初めて我が子を手のひらに抱いて赤ん坊が泣いて動きますよね、その命の始まりを手にした時の感動というものを割とナイーブに生涯持ち続けた面がありますよね。子どもに対してですね。ですから、子どもに対しては、強制するということも、勉強しろということも一回も言われたこともないし、割と自由にしていました。けれど、ただ躾けなんかは厳しい方で、うるさかった
んですけどね。学校の成績がどうのとかいうことは一切なかったですね。


 ◆ 正確な記録を ◆

馬場 今後、例えば相田君の研究書というか、お父さんについてまとめたようなものは何か考えているんですか。
相田 いろんなところからお話はいただいているんですが、なかなか書けないですねえ。(笑)
馬場 こういうことを研究されている方とか…。
相田 いろいろいらっしゃるんですけど、去年私が調子よくですねぇ、「じゃあ、書きます」とか言って予告もでちゃったこともあるんですけど、結局もうゲラまでいって何か納得できなくて、まだ発売に至っていないんですよ。それで、少し視点を変えようと思って、夕刊フジの連載なんか載っているんですけど、いずれまとめなくちゃいけないと思うんですけどね。身内の書いたものは、まあ一次資料的な意味合いがありますので、一般の方がそれを元にいろいろ書かれたりするので…。それが分かっていますので、まだまだ力不足で書けないですけどね。
馬場 萩原葉子さんが『父のこと』という単行本を書いてますよね。そのような感じででも、いまおっしゃったようなことを…。
相田 ええ。書き残しておきたいとは思うんですけどねぇ。ちょっと複雑な面が多分にあるので。まあ、「知っているつもり」という番組でも随分誤解されて描かれちゃったものですから。テレビ局さんというのは割と強引なんですよね。こちらのNHKさんの方は直接・間接この美術館を訪れた方のものなんですけど。

 ◆ 直接心に響く言葉 ◆

相田 このNHKの中に素顔で出てくるんですけども、刑務所にいらっした方がいるんですよ。前科五犯、覚醒剤、傷害…いろいろあるんですが、この方が刑務所の中で『人間だもの』の本を紹介されて感動して、出所して訪ねてくれたんですね。そして、「今、やっと人生に目覚めました」という話をしてくれて…。
 神戸の方が非常に多くいらっしゃって、住宅が倒壊された方がよく体育館ですとか仮説住宅に住んでいますよね。そういうところがテレビで映るとよくこういう作品が飾ってあるとかが多かったんですよ。「これ何ですか?」というと、「これ好きで心の支えにしてます」みたいなことが多かったものですから、それで是非、神戸の方で出来ないかと。美術館が立ち上がってまだ数ヵ月だったんですけどね、全くボランティア活動で三〇点くらい持っていきました。
馬場 完全に無料で…。
相田 ええ。全く無料だったんですけど。
馬場 もう、取れないよねぇ。そうだなあ。
相田 こういう販売なども全然やらなかったんですよ。ですから、最初からペイするようなものじゃなかったんですけど。ボランティアの方も手伝ってくれました。その一つのきっかけになった方が、神戸の方でこの中に出てくるんです。アパートなんかが倒壊して全部なくなっちゃったんですけど、その方だけ助かって、それで入院・リハビリをしての中で、一番支えになった本がここにある『雨の日には』という本だったということなんですね。
 神戸で非常に印象的だったのは、実際に被災者の方にお話を聞いたらば、地震があった直後というのは、長い言葉というのは全然入ってこないらしいんですね。「そのときどう動く」という作品があるんですけれども、震災でたまたま崩れなかった壁にその作品が掛かっていて、それが強烈に印象に残ったというんですね。
馬場 ああいう短い言葉の方が…。
相田 ええ。長いのは全然駄目だったんですね。たまたま「その時どう動く」というのがあったので、それが非常に支えになったと。それからしばらくすると、「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」という作品があるんですけど、まさにそういう世界があったというんですね。援助物資なんかが来ますよね。で、炊き出しなんか来るんですけど、「うちよりもあっちへ先に持ってください」という感じで、「わけ合えばあまる」みたいな世界があったらしいんですよね。それからしばらくして、復興が始まってくると、土地の問題だとかいろんな問題があって、エゴイスティクに流れてきて、一年経つ時点で一番心に残る作品というと、先程の「道」という作品が一番いいということなんですね。極限状態になると、長い言葉というのは心に入ってこないと言いましたですね。



 ◆ 具体的に動く ◆

馬場 相田さんの作品をみると、単に心だけの満足っていうんじゃなくて、動くというのかな、働きかけるというのか…。
相田 そうですね。やっぱり「具体的に動いてごらん」というのがありますからね。ですから、具体的に動くということを父自身がよく言っていたんですけどね。ここにもありますけど。
馬場 そういう何か、一つのモチーフとしてあったみたいな感じ…。
相田 そうですね。「ともかく 具体的に動いてごらん 具体的に動けば 具体的な答えが出るから」というのが。
 特に、三月ぐらいには受験期の小中学生が多かったんですよ。その人たちからこの作品がいいということは随分ありましたね。それもやはり二通りの感想が残っていて、これを見て随分励まされたという人と、「具体的に動けば具体的に答えが出るから」としか書いてないから、今頑張って勉強したからといって、絶対合格できるわけじゃないと。非常に厳しい感じがしたというのと。でも、具体的な合否の答えが出れば、それを受け止めてまた具体的に動けばいいんだと思いました、というような感想もあったりしてですね。
馬場 受験の問題として捉える人もいるんだねえ。
相田 この作品は、受験期に非常に人気があったんですよ。(笑)
馬場 もうちょっと、私や何かは違う意味で捉えていたんだけどね。うん…。
相田 受験の時にはみんなビビッドに…。
馬場 どうにもならない心の状態で悩んでいる時に、という意味なんだろうなって…。
相田 そうなんですよ。普通は一般的にそうなんですよね。たまたま中高生がこの時期三月多かったものですからね。
馬場 あの柳宗悦か何かのね、ああいう何か物に働きかけるっていうことにつながってくるんだろうなって気も…。
相田 そうですねぇ。たとえばこの「生きているうち はたらけるうち 日のくれぬうち」というのは、お年寄りが読んだ場合にどうなのかなあって気はちょっとしたんですよ。ところが、あるお年寄りの八〇近い方だったんですが、「この言葉が本当に好きなんで、この作品の色紙とかいうのはないんですか」と言われたこともありましたですね。我々ぐらいの年齢だとあれですけど、年取った方が読まれるとどうなんだろうなって気があってね。
馬場 本当の日暮れだと考える人ねぇ。
相田 うーんちょっとねぇ。語弊があるかなって感がしたんですけど。皆さんそういうふうにはとらなくて、好意的にとってくれたみたいですね。
馬場 人間ってやっぱり死の直前まで前向きに生きているんでしょうね。
相田 そうでしょうね。父は突然死に近い形の脳内出血という亡くなり方だったものですから、自分の死期が近づいているっていう意識はなかったんですよね。パッと散っちゃったような亡くなり方だったんで。もし長く患ったりしてだんだん衰えていくようなことには耐えられなかったんじゃないかと思いますけどねぇ。突然亡くなっちゃったんですね。だから、ここに残っている作品は全て未完成みたいな途中経過みたいな感じですね。で、間違いなくやることは、父がもし生きていれば、かりに美術館をつくることを許可したとしても、作品は全部書き直すからということで、で、延々と出来なかったんじゃないかと思いますね。(笑)それは間違いないですね。
馬場 ふふ、なるほどねぇ。
相田 やはりプロの書家でしたから、筆をとらない日は一日もなかったんですよ。

 ◆ 人間不信から人間肯定へ ◆

馬場 田舎の方にも何かそういうのあるんですか。
相田 いや、ここにしかないんですね。というのは、一番本質的なことが書かれているのは、この『おかげさん』の本だと思うんですけどね。これは、週刊ダイヤモンドという経済誌がありますね。あそこの企画で、一年間連載されたんですよ。書とエッセイという形で。あの固い週刊ダイヤモンドという経済誌の中では異色のページだったんですけどね。六三〜六四歳ぐらいの時の仕事なんです。この時期に父の技術的なものと意欲的とかですね、一番バランスが取れていた時期かなぁと思うんですけどね。ですから、短い作品が多いんですけども、結構コクのある作品が集まってますからね。最後にやっぱり「人間のわたし」というのがありますからね。人間を非常に肯定的に捉えてはいるんですけども、いろいろ生い立ちなんかを考えると、すごい人間不信の長いトンネルの時期があるんですよね。「知ってるつもり」でもちょっと描かれたんですけれども、二〇代の初めにいろんな事件があって大怪我をして長いこと入退院を繰り返すんですよ。青春時代を非常に暗い中で過ごしたものですからねぇ。人間不信の極みみたいな環境にいたんですけども。
 一つは結婚して私が生まれたのが契機になったんでしょうかね。人間思慕というのを三〇歳から盛んに書いた時期があって、それから作品が変わってきたみたいですね。
馬場 相田君が世に出たことによってね。
相田 子どもが可愛かったみたいですけどねぇ。出来の悪い息子ほど可愛いっていいますから。(笑)妹には期待してたみたいですけどね。
馬場 いやあ、立派に跡をついで、すごいもんだよね、これは。
相田 いえいえ別に。跡を継ぐ仕事は全然ないんだけど、後始末はしなくちゃいけないなあと思ったものですからねぇ。

 ◆ 生涯何の肩書きも持たず ◆

馬場 その辺のところは作品には残っていないのですか。
相田 『一途に一本道』という本があります。小さい頃、「親父さんは何やってんの」って聞かれて、いつも答えられなかったですからね。絶句してしまいましたけれども。うちの母なんかも、子どもを医者に連れていったりして、職業欄ってありますよね、いつも一瞬そこで手が止まって…。(笑)
 書家っていうのは田舎ではいわゆるお習字の先生を指すんですよ。お習字はやってなかったんで、書道塾をやってたんじゃないので、それはもう否定してましたから。だから、書家とも書けないし、デザインの仕事なんかもやってましたから、よく商業デザイナーとか書いたりしてましたけど、父の名刺には生涯何の肩書もなかったんですよ。



 ◆ 兄二人の死が人生の方向を ◆

相田 これは(『いちずに一本道』)たまたまなくなる年に連載したものをまとめたんですけど、不思議な因縁なんですが、今まで書かなかった自伝的なことをいろいろ書いたんですよね。家族には話したりしたことは多いんですけど、文章には一切していなかった自分の中学生時代のことだとか、両親のことだとか、そんなことを書き残したんですよね。で、書いて亡くなっちゃったものですから。
 丁度父が亡くなる三日前に、私がたまたま父が意識がなくなって小康状態になったものですから、東京の会社が気になるので戻ってきて、渋谷の駅の階段から落ちたんですよ。全身打撲の右足骨折で、深夜に救急病院に担ぎ込まれたんですね。全身麻酔で手術して、その状態ですぐに父が亡くなったものですから、移動したら責任持てないなんて言われたんですけど、帰らざるを得ないんで、結局、車椅子で葬式に出たんですよね。父が亡くなった病院の隣の病室が空いたものですから、そこに親子で入れ替わりみたいに入院したんですがねぇ。
 その時に、もう仕事も出来ないので、この本の編集に専念しまして、病院にファックス電話を入れてもらってですね、最もよく働く患者さんとか言われたんですよね(笑)。手だけは動かせたので、ワープロとか、それで本の編集をしたんですよね。カットがあるのは、私の妹なんですよ。ムサビ(武蔵野美大)に行きまして、父は妹に非常に期待してまして、いろんな自分の才能は妹の方に行っていると思ったので、確かにそうなんですよね。今は平凡な主婦になっちゃいましたけど。この装丁はうちの会社のデザイナーが担当して。これは追悼出版だったのでほとんど身内で。なつかしい本ですけどね。「知ってるつもり」というのは、この中のエピソードをもとに大体作ったんですね。
 父は兄が二人いて、二人とも戦争で亡くなってるんですよ。それがすごく自分の方向が決まった大事なエピソードですね。六人兄弟(男四人、女二人)の三男坊なんですよ。父親は刺繍の職人なんですよ。腕はいいんだけど商売下手みたいなタイプで。一生懸命働いても家は貧しかったみたいですね。それが、二人の兄というのは非常に優秀だったらしいんですけどね。家が貧しいので旧制中学に進学できなかった。その代わりに二人が父親のアシスタントみたいな形で刺繍を覚えて、働き手が一人だったのが三人になったんですよね。で、三男坊の父から経済的に余裕が出来たので、旧制中学に入れてもらえたということで、父からみると、兄二人が活発だったんで、父親代わり的な面が強かったみたいですよ。で、本来ならば兄たち二人が旧制中学に行くべきなのに犠牲になって自分を旧制中学にあげてくれたという意識が強かったみたいですね。そのお兄ちゃん二人が相次いで戦争でなくなりましたので、その辺が大きく人生変えちゃったみたいですね。
馬場 あの、道としては、美術工芸というか、そういうのがずっと続いているのがあった…。
相田 それはあるかも知れないですね。代々職人だったかどうか分からないですけど、割と良心的な機嫌のいい職人さんだったみたいですね。
(終わり)

     *     *     *


 私と話している時も次々と来客があるようだった。それをおいての長時間に及ぶ相田美術館館長相田一人氏の話であった。かつて同じ仕事をしていた時と同じ風貌と雰囲気を持った姿がそこにあった。ただし、お互いに少し老けてはきたが…。

 この「ゥ生きる喜びゥ相田みつを展」(美術館開館一周年記念特別企画)は一九九七年九月一三日から一一月三日まで、前期と後期に分けて開催された。常設では見られない未発表のものも公開された。連日一〇〇〇人以上の入場者があったようである。

 来館者は実に様々。随分遠方から来られる方もいるようだ。そして、意外に若い人たちが多い。来館者用のノートには、出会いの感動と喜びが様々な言葉で綴られている。みな相田みつをさんに逢いたくて、相田みつをさんの言葉に直に触れたくてやってきた人たちばかり。そしてここで、乾き切った心が潤わされ、凍てついた心が溶かされ、傷ついた心が癒される。忘れ去っていた自分本来の心を甦らせるのだ。ここには、ほっとする心の空間がある。互いに共感し合う心のたゆたいがある。悩み、苦しみ、のたうち回ってきたからこそ得られる人間への信頼と生きる喜びの姿がここにある。みんな同じ人間なんだもの そう誰でもが納得するものが確かにあるのだ。

 私自身が学んだもの。「ああ、書とはこうあっていいんだ」と。小学校以来私を悩ませてきた「書道」への呪縛から解放された思いであった。その意味で私もまた「ねばならない」の囚人であった。

 相田みつをが書に求めたものは、外見の立派さや達筆さからは程遠いところにある。もし、その表わそうとする内実とは裏腹に書の形の立派さを追求したならば、おそらく相田みつをの書の魅力は半減したであろう。この人にしてこの書あり、この言葉にしてこの書あり。
 この一見拙く、あたかも初めて筆を手にした子どもが己の心をなぞるように書き上げられた書は、心と形の一致を目指した相田みつをの究極の書の姿なのだと得心する。そして、その書が書道教育によって私を呪縛し続けてきた積年の固定観念を霧消させたのだ。

     *     *     *

※相田みつをの作品から(実物の書に触れて欲しい)

 Cかんのん賛歌
  かなしみと/うれいを/ひめて/あそぶ人

 Cいまここに/だれとも/くらべない/はだかの/
  にんげん/わたしが/います

 Cだれにだって/あるんだよ/ひとにいえない/
  くるしみが/だれにだってあるんだよ/ひとにい  えない/かなしみが/ただだまっている/だけな  んだよ/いえばぐちに/なるから

 Cあなたにめぐりあえて/ほんとうによかった/
  ひとりでいい/そういってくれる/ひとがあれば

 Cただいるだけで あなたがそこに/ただいるだけ  で/その場の空気が/あかるくなる/あなたがそ  こに/いるだけで/みんなのこころが/やすらぐ  /そんな/あなたに/わたしも/なりたい

 Cみかんにはみかん/の味があり/
  りんごにはりんごの/美しさがある

 Cしあわせは/いつも/じぶんのこころが/きめる

 Cここは/孤独なところ/自分が/自分になる/と  ころ

 Cかんのんさまは/どうして/こんなにしずかなの
  /かなしみに/たえた人だから/どうしてこんな
  に/やさしいの/ひとの世の/くるしみに/一番
  泣いた方/だから

 Cうつくしいものを/美しいと思える/あなたの/
  こころが/うつくしい

●相田みつを美術館
  〒一〇四 東京都中央区銀座五ゥ二ゥ一
銀座東芝ビル五階(H2数寄屋橋阪急上)
   電話 03・3575・0481

※雑誌『ニコラ』で紹介した時に掲載した沢山の「書」の写真は割愛した。「書」はそれ自体が芸術作品であり、その扱いは絵画の場合と同様だからである。しかも、掲載・紹介する場合には所有者の許可も必要になる。そして、何よりも肝腎なのは、絵画と同じく「書」も実際にその作品を直に見て観賞すべきなのである。だから、もし相田みつをの「書」に関心を持ったならば、ぜひ一度、東京・銀座の相田みつを美術館に足を運んで欲しいと思う。そして、あなたの心に響く書と出会って欲しいと思う。

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